雪の日

 朝目覚めると、いつもより室内が暗かった。
 月加はまだ日も昇らぬ時間に起きてしまったのかと思ったが、カーテンの隙間からは白い光がこぼれている。
 雀の声ひとつしない静かな朝だった。
 不思議に思いながらカーテンを開けると、そこには一面の銀世界が広がっていた。
 薄曇りの空から音もなく降り続けている雪は、すでに5センチ以上積もっているように見える。
 夕べは確かに寒かったが、まさか降るとは。
 雪自体めずらしいのに、積もるほど降るのはいつ以来だろう。
 月加は、ちらりと学校指定の鞄を見た。
「……バス、ちゃんと出るんだろうな」
 いつも利用している通学バスは、はたして通常通りに動くのだろうか。時刻表通りにはいかない気がする。
 遅刻しないためには、早めに家を出て徒歩で行くしかない。かなり距離はあるが、辿り着けないこともないだろう。



 月加が支度を終えて外へ出ると、車が玄関前にまわされていた。
 ほかの家人のために用意されたものだろうと思ったが、車から出てきたお抱え運転手は、さっと彼女のために後部座席のドアを開けた。
「おはようございます、お嬢様」
「おはようございます立原さん。……あの、わたしは乗りませんよ?」
 月加は初老の運転手にそう言ったが、彼はにこりと人好きのする笑顔を浮かべて言った。
「坊ちゃまが」
 そのひと言で月加にはすべてが通じた。顔をしかめる。
「あの、わたし歩いて行くので。すみませんが立原さん、あの人にそう伝えておいて下さい」
「お嬢様、この雪じゃ危ないですよ」
「平気です。この程度なら歩けないほどではないですし」
 心配げな運転手にそう言った時だった。
 月加の背後から、聞き慣れた男の声がした。
「滑る危険はあるけどね」
 月加は舌打ちしたくなった。なぜいる。
 苦い顔を隠しもせずに振り返ると、そこには彼女の許婚が立っていた。
 一重の切れ長の目が、月加の視線を捉えて細められる。
 その柔らかな微笑み。整った顔立ちに加え、一見して優しげに見えるそれに世間一般の少女たちはころりと騙されているようだが、月加にはいつも何か含みがあるようにしか思えない。
「……滑りません。歩いてちゃんと行けます」
 月加は、なぜ普段から車で登下校している許婚が、この早い時刻に自分と一緒に出かけようとしているのかなどという疑問には触れなかった。
 聞かなくてもこの人の答えはわかっている。自惚れではなく事実として。
 傘を差し、車を避けて行こうとした月加の背に、許婚の落ち着き払った声がかかる。
「おいで。俺が一緒に乗ってあげるから」
「……」
 それはずいぶん上からの物言いだった。
 けれども月加は、かちんと来ることもなく、ただ立ち止まった。革靴の上に雪がうっすらと降り積もる。 
 風が吹き、傘の柄を握る月加の赤い手袋にも白い雪片が舞い落ちた。
 黙っていると、三つ年上の許婚はもう一度、その柔らかで低い、こちらを安心させる声音で言った。
「おいで」
 音もなく降り続ける銀世界はとても静かで、だからだろうか。
 普段の月加なら、車に乗ることのほうが怖いのに、今この時は、一人で歩いて行くことのほうが怖いと感じるのは。
 まるで、静寂しかない世界に閉じ込められているようで。
「……」
 月加は少しだけ振り返った。
 すると、許婚はゆったりとした動作でこちらまで来て、月加の背を軽く押して車のドアまで導いた。
 抗うことはしなかった。代わりに、促されるままに傘の柄を委ねる。
 許婚は残る手で月加の手をとり、車内へ身体を入れるのを支えてくれた。
 運転手がドアを閉めている間に、許婚も反対側のドアから後部座席に乗り込んだ。
 車内は暖かかったが、月加の身体は強張っていた。視線を落とし、膝の上で鞄を抱いた姿勢のまま固まっていると、隣に座った許嫁が声もなく笑う気配がした。
 なに笑ってんだ、このド鬼畜。
 そう悪態をつきたいのは山々だが、月加は視線を上げることすらできなかった。車は苦手だ。特に自家用車は。落ち着かず、手の平にじっとりと嫌な汗をかいた。
「出ますよ」
 運転手が声をかけ、許婚が「お願いします」と短く返すのが聞こえて、思わず身体が震えた。
 学校まで耐えられるだろうか。
 同じ車でも、バスは大きくて天井も高く、閉塞感が少ない。初めは自家用車同様、エンジン音のするものに恐怖があったが、通学のためと自分に言い聞かせて乗るうちに慣れてしまった。
 しかし、こちらは普段から乗るのを避けているので、こうして稀に乗ると条件反射で身体が凍りついてしまう。
「……あの、わたし」
 やはり歩いて行こう。
 まだ屋敷の門を出たばかりだが、月加は降りることを伝えようとした。
 しかしその時、月加は許婚に肩を引き寄せられた。こつん、と彼の固い肩に頭が当たる。
「……あの」
「ん?」
「……」
 間近で見上げた許婚は、穏やかに微笑んでいた。
「……な、んでもない」
「そう」
 月加は目を閉じた。相手の体温が温かくて、次第に身体の強張りが解けていくのが感じられた。
 甘やかされている、と月加は思った。
 それを自覚しているのに、時々その甘やかしに身を任せてしまう。
 家が決めた許婚。家族でも恋人でも友人でもなく、好き合っているわけでもない相手。なのに一番傍にいる。
 時々、心の中をすべて見透かされているのではないかと思うぐらい、近くに感じる。
 そして、その度に思う。この不思議な人は自分にとって何なのだろうと。
 触れている肩からその人の存在を確かめるように、月加は気づかれぬ程度にそっと身を擦り寄せた。
 

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