火曜日のゆううつ

 ――――火曜日。
 学校から帰宅した月加は、離れにある自分の部屋ではなく母屋の居間に向かった。帰ってくるなり使用人の一人に、「七瀬さんがお呼びです」と伝えられたからだ。
 一体何の用か知らないが、きっと大した用ではない。どうせ「散歩に行こう」とか「ちょっとコミュニケーションとろう」とか、その程度のことだろう。
 それでなければ、またロクでもない戯れ事か。この間のホワイトデーを思いだし、月加はぞっとする。
 あの日は最悪だった。月加はバレンタインデーに許婚にチョコをあげたはいいが、なぜか相手からもチョコを貰ってしまい、互いにお返しをするというワケのわからない事態に陥っていたのだ。
 本来ならそんな物々交換にお返しなど必要ないが、許婚がホワイトデーをするというのなら月加も無視できない。何であれ、相手から一方的に与えられるのは嫌だから。
 だというのに、うっかりすっぱり綺麗にホワイトデーを忘れていて、許婚からキャンディーの詰め合わせを貰って初めて思い出すという大失態。
 ざーっと青ざめたのは、別に許婚に悪いことをしたと思ったからではない。代わりに何を要求されるか分かったもんじゃない、と思ったからだ。
『……い、いまから買ってきます。飴がいいですか、それともクッキー?』 
 引きつった顔で後ずさりながら尋ねると、意地の悪そうな微笑を浮かべた許婚は、開いたぶんだけ距離を詰めて、ご機嫌な調子で言った。
『外はもう暗い。危ないから買いに行かなくてもいいよ』
『いや平気です。行きます。行かせて。行かせろバカ』
 身の危険を本能で察知してなおもジリジリ後ずさりながら早口で言う月加に、許婚は得体の知れない笑顔のまま言った。
『ワルい口だな。塞いであげようか』
 ――――どうやって、などと聞いてはいけない。気がする。
『……イエけっこう。閉じますからお構いなく』
『じゃあそのまま大人しく閉じているといい』
 なぜ、と思った瞬間、月加は後頭部をさらわれた。許婚の方に引き寄せられ、焦ったのと同時に唇の真横に冷たいキスが降る。
『ぎゃあ!!』
『お前ぎゃあはないよ、かわいくないね』
 素早く離れた許婚は、やれやれとため息を吐いた。
 思い出しても腹立たしいが、その時はそれどころではなかった。
『かわ、かわいくなくて結構! このへんたい! ばか! キス魔!』
 袖でごしごし頬を拭い、月加は心底軽蔑の眼差しで許婚を罵った。が、彼は全く動じず、平然と笑う。
『キス魔と呼ばれるほどしてないだろうに。ま、とにかくそれで貸し借りなしにしておこうか』
『貸し借り……?』
 別に貸し借りをしたわけではないが、心情的には確かにそれが近い。許婚にキャンディーのお返しをしなかったら、月加の貰いっぱなしになる。それは悔しい。何か負けた気になる。
 だからほっぺにちゅー(限りなく唇に近かったが)でお返ししたことになるなら、まあ、――――何か釈然としないものはあるが仕方ないかと思えなくもない。ないが、……やはり月加はごしごし拭った。
『俺が傷つくから止めなさい』
 それしきで傷つくような可愛らしさなど持ち合わせていないくせに。
 月加は冷ややかに言い放った。
『当分わたしの周囲一メートル以内に入ったら叫びますよ変質者』
『たかがキスで?随分かわいいことを言うね、おまえは』
 確かにたかがキスだ。しかし、されたのは鳥肌が立つような場所である。実際立っていた。これがでこちゅーとか、本当のほっぺにちゅーならまだ許せる。たぶん。
 許婚は『それじゃあ、そうしようか。機嫌悪くしているお前はかわいいけど、長引くと飽きてくるしね』となんだか腹の立つことを言い、了承した。
 それから許婚は本当にひと月ほど近づいては来なかった。反省しているというよりは、その機会に距離をとって遠くから観察されている気がした。動物園の動物みたいに。
 しょせんあの許婚にとって、自分は珍獣か何かなのだ。徐々に慣らして楽しんでいるだけ。―――― 一生慣れてなどやらないが。
 それはさておき、今回のお呼び出しである。今の時期ホワイトデーみたいな行事はないし、さほど変な話ではあるまい。月加は軽く構えて居間の襖を開けた。
「お帰り、月加」
 くつろいだ様子の、すでに私服姿の許婚はにっこり微笑んでそう言った。どうも含みある笑顔にしか見えない。軽く構えていたが、そのうさんくさい笑顔に警戒レベルが一気に上がる。許婚からかなり距離をとって座った。
「ただいま帰りました……で、何の用ですか?」
「次の金曜、遊園地にでも行こうか」
 ゆうえんち?
 月加は眉間にしわを寄せて固まった後、しかめっつらのまま言った。
「遊園地きらい」
「アヒルがいるよ」
「……」
 アヒルということは、目的地は最近できたばかりの遊園地らしい。マスコットキャラクターが、服を着たアヒルの「がーがーくん」なのだ。友人が見せてくれた雑誌に特集記事が載っていて、写真で見る限りは間抜け面でまあまあ可愛かった。ちょっと実物を見てみたいと思ったが、しかし月加は本当に遊園地が嫌いだ。それに、許婚と二人で意味もなく出かけることにも抵抗がある。
「たいへん残念ですが金曜は学校です」
「変だな。金曜の日帰り研修旅行、欠席するなら学校に行く必要はないだろう?」
 なぜそれを知っている。
 月加はますます渋面をつくった。次の金曜が学校の日帰り研修旅行であることも、それをずる休みしようと思っていることも、何一つ許婚には話していなかったのに。
「どこでわたしの行事予定表を入手したんですか」
「有里(ゆうり)」
 それは同じ学校に通う、許婚の親戚だった。学校では説明が面倒なので、月加も「親戚」ということにしているが、それと同時に友人でもある。裏切られた、という気持ちはわかない。どうせ「見たいんだけど」と言われて何の違和感も感じずに普通に「いいですけど」と渡しただけなのだ、あの友人は。常に淡々として無頓着な人間に、「そんなもの軽々しく渡すな」と怒ったところで「なんで?」と不思議がられるだけである。
 月加はがっくりうなだれた。
「それとも研修旅行に行く?」
 許婚が悪魔のような笑みを浮かべていた。いや、ようなではなくコレは本物の悪魔に違いない。
「脅すわけですか」
 自分と遊園地に行かないと、ずる休みを保護者にバラすと。そういう含みを持たせた口調だった。
 保護者に告げ口だけは避けたい。後からバレるのはいいが、事前にバレると参加させられる。それは嫌だ。研修旅行の移動はすべてバスだから。通学バスなら距離が短いので耐えられるが、長時間となるときつい。下手すると吐く。酔うわけではなく、精神的に耐えられなくなる。ちなみに自家用車でも同じだ。
 保護者はそのことを知らないし、月加もそれを言う気はないので「学校行事には参加しなくちゃ。おともだちできないわ」とおっとり余計なお世話を言われたあげく強制参加させられるに決まっている。
 と、そこまで考えて月加は唐突に気づいた。
「学校! あなたもあるじゃない! 金曜なんだから!!」
「こら、人を指さない」
「あ、ごめんなさい」
 そこだけ素直に謝って手を下ろしたが、反撃は続けた。「でもそうでしょ? だからそもそも遊園地なんて行けないじゃない」と。
 ところが許婚はゆるりと微笑んだ。中身を知らなければ、ちょっと見惚れてしまう穏やかなイイ笑顔だった。
「お前が学校に行かない日に俺だけに行けと?」
「…………行けば?」
 同じ学校に通っているわけではない。月加が行こうが行かまいが、許婚の学校生活には何の影響もないはずだ。あったら驚く。
「お前をひとり野放しにはできないだろう? 学校がなくて一人でいるというなら俺がついていないと」
「誰が野放しだ」
「この間ひとりで買い物に出て初対面の男二人と喧嘩したのはお前じゃなかったかな」
「……」
 月加は目をそらした。許婚はやれやれという風に言う。
「かわいそうに、全治一週間」
「か、かすり傷でしょ。バックで殴っただけじゃないですか。向こうが貧弱なのが悪いんですよ。そもそもしつこく遊びに行こうとか何とか言ってきてうるさかったんだから、殴られたって文句言うなって話でしょ」
 しかし未だになぜ初対面で、明らかに年下の人間を遊び仲間に加えようと思ったのかは謎である。遊ぶなら同い年くらいのそこらのお兄さんに声をかければよかったのだ。月加がそう言うと、許婚は微妙な表情をした。
「お前はやっぱりちょっと鈍いね。いや、鈍いというより変に世間知らずか……」
「どこが」
「そういうところが。まあとにかく、朝十時に出るから支度しておくように」
「誰も行くとは……!」
「お前がどうしても研修旅行に行きたいなら止めないけど」
「…………」
 かくして、平日に許婚と二人でお出かけなどという暗澹たる予定が立てられたのである。
 




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