歌うひと

「……あれ、お嬢さん。なんでいるんスか」
 家の敷地内で洗車していた青年が、月加の姿を目にして不思議そうに訊いた。
 月加の世話係である楓だ。彼は白シャツの長袖を肘まで捲り、車体にホースで水をかけていた。
 一方、縁側から庭に下りて、ぶらりと歩いてきた月加は「お盆だから」と短い言葉を返した。
「お盆? お盆だと何か……。あ、そうか」
 楓はすぐ理由に気づいたようだ。
 月加が今の時期、この家にいる理由に。
 ここは許婚の家ではない。月加の保護者の家だ。つまり、一応、月加の家ということになる。
 楓は、少し可笑しそうに言った。
「お盆だと、本家は人の出入りが激しいですもんねぇ。今年も避難してきたわけですか」
「そういうこと」
 月加は楓が上着を引っ掛けている石のベンチに腰を下ろし、洗車作業に戻った彼の動きを何とはなしに眺め始めた。
 許婚・七瀬の家は、正月やらお盆やらになると客人が絶えない。一族の人間が次から次へとやって来て、七瀬の祖父や両親に挨拶していくからだ。
 七瀬もまた、本家の跡取りとして挨拶を受ける。あのいつもの得体の知れない笑顔で、客人の繰り出すお世辞やら嫌味やらをさらりと受け流しながら。
 月加もその場にいていいと言われているけれど、選択肢が与えられるなら、そんな厄介な行事はパスするに限る。一族の連中は口を開けばロクなことしか言わないし、そもそも七瀬の許嫁としてそういう場にいること自体に抵抗を覚えた。
 許嫁と決められたばかりの頃、一族の人間――――特に年頃の娘を持つ親たちが「お前に七瀬の許嫁が務まるものか」としきりに嫌味を言ってきたが、月加自身も似たような意見だった。
 務まる務まらないはさておき、七瀬には、自分より相応しい相手がいるはずだ。
 あの人は変わり者で、性格が悪くて、得体が知れないけれど、たくさんのものに恵まれている。本来なら、そんな人の許嫁には、同じようにたくさんのものを持った人が選ばれて然るべきだった。
 ――――自分のように、すべてを失った人間ではなく。
「……」
 ぼんやりと考えていると、楓が振り返って明るい笑顔で言った。
「これ終わったら、かき氷でも食べに行きますか?」
「……どこに。何で?」
 月加は仏頂面で移動手段を聞き返した。
「そりゃあもちろん、キレイになった俺のハニーで」
「あんたのハニーじゃないでしょ」
 この車を運転するのは楓だけだが、所有者は彼ではなく月加の保護者である。
「歩きでいい」
「海沿いのカフェ、歩きじゃ無理ですよ」
「……」
 月加は別に歩くのが好きなわけではない。単に車移動が嫌いなだけだ。
 だから、こういう場合、いつもならば近場にある別の店に変えろと要求するのだが、しかし件の海沿いのカフェは最近オープンしたばかりで、一度入ってみたいと思っていた所だった。
 それゆえ、月加は仕方なく口をつぐんだ。
 楓はにっこりと微笑んで作業を再開し、鼻歌を歌い始める。それは月加の知らない曲だった。
「それ何?」
「それって?」
「そのフンフン言ってるの、なんの曲?」
「あ、これですか」
 言って、また少し歌ってみせる。
「ドラえもんですよ」
「……なに?」
「ドラちゃん。見たことないですか?未来から来たロボット。アニメなんですけど」
「知らない」
「なら今度、貸しますよ。確か甥っ子が映画版のDVDを持ってたはず」
「……トトロは?」
 それも前に貸してくれると言っていたのに、結局まだ借りていなかった。別にアニメが見たいわけではないが、一般的に知られているものだと言われれば、このまま知らずにいるのは何となく悔しい。
 月加はよく変なところで負けず嫌いを発揮する。
 楓が軽く吹き出し、面白そうに言った。
「はい。じゃ、二本。明日お持ちします」
 ただ訊いただけなのに、楓はからかい混じりの声音だった。
 まるで、こちらがとても見たがって催促したみたいな雰囲気になってしまい、月加はムッとした。
 楓という人は、けっこう年上なのに普段は幼い子供みたいに無邪気で明るい。
 しかし、時々こんなふうに年上のお兄さんぶった(事実そうなのだが)態度をとることがある。七瀬にも通じることだが、それが妙に腹立たしい。
 楓のくせに、と思いながら月加はベンチから立ち上がり、その手からホースを奪って代わりに水をかけ始めた。
「お嬢さん、服濡れますよー」
「大した服着てないからいい」
「左様で……。ときに、本家の若様、今頃さみしがってんじゃないですか?」
「はあ?」
「だってお嬢さん、いつまでこっちにいるつもりか知りませんけど、あの若様、前に一日一回はお嬢さんを構わないと落ち着かないって言ってましたよ」
「犬猫か。わたしは」
 たしか前にも同じセリフで突っ込んだことがある気がする。
 車体が綺麗になると、月加はホースを片手に持ったまま、「玄関前も水撒いとく?」と楓に聞いた。何しろひどい暑さである。少しでも気温を下げたい。
「ああ、そうっスね。――――あ、お嬢さん」
「なに」
 視線をやっても、楓はただ笑顔で月加の傍を指差し、何も言わなかった。
「? ……なに……」
 訝しみながらその先を見ると、月加の持つホースから溢れ出る水のなかに、うっすらと虹が生まれていた。
「あ」
「綺麗ですね」
「……うん」
 じっと眺めていると、どこか近くから蝉の鳴き声が聞こえてきた。
 青空を、白い大きな雲が通り過ぎていく。ぬるい風が月加のスカートの裾を揺らした。
 虹を眺める月加の脳裡に、ふいにいつかの記憶が蘇る。
 あれはずっと昔のことだった。雨上がりの空に、大きな虹がかかっていた。月加はある人に背負われた状態で、「あ!」とそれを指差した。その手は今よりうんと小さかった。
 色素の薄い髪が目の前で風に揺れていた。月加を背負っていたその人は、たしか「綺麗だな」と言って、顔を向けて微笑んでくれた。
 けれどもう、その顔や声はおぼろげにしか思い出せない。
 その人は、もう一緒に虹を見られない遠いところへ行ってしまった。
「お嬢さん」
 呼ぶ声に視線を向けると、楓はいつの間にか車体を綺麗に拭き終えていた。
「ほら、水止めて。俺と一緒にお出かけですよ」
 優しく笑うその顔は、歳も性格も外見も異なるのに、一瞬だけ彼に重なった気がした。

   * * *

 海沿いのカフェは空(す)いていて、先客は三組だけだった。この辺りの住人が、ほとんど田舎に帰省しているせいかもしれない。
 店員に案内された窓際の席からは、陽光で煌めく海が見えた。月加はイチゴ味のかき氷を、楓は自分から食べようと誘ったくせに、アイスコーヒーしか頼まなかった。
「俺、甘いの苦手なんスよねぇ」
「じゃあ何でかき氷食べようなんて言ったのよ」
「いやぁ、暑いし、お嬢さん帽子も日傘もなしに外に出てるし、溶けちゃマズイから何か冷たいものあげなくちゃと思いまして」
「わたし暑さで溶ける生き物になった覚えないけど」
「なくても見えるんですよ。お嬢さん全体的に色素薄いし、なんかこう、ほっとくとジワジワ熱で溶けていきそうな感じが……」
「楓くん、アイスコーヒーにシロップ投入してあげるね」
「って言いながら入れないで! うあ、ひどいお嬢さん! もうこれ飲めねえ!」
「飲め」
「……お気に障ったんですね」
「障ってないわよ、あの程度で」
 嘘くさい言い方で返し、月加はかき氷を完食した。
 向かいの席では楓がガックリとうなだれている。いい年して、本当にこういうところは年下のようだ。
 月加は、ふと笑った。もし、自分に兄弟がいたらこんな風だったのだろうか。
「お嬢さん?」
「なに?」
 月加は楓がテーブルの端に追いやったアイスコーヒーを手元に移動させて、ストローで意味もなく中身をかきまぜていた。
 渦を巻くアイスコーヒーを見つめていると、やけに真摯な声が降って来る。
「そうやって、もっと笑った方が良いですよ。お嬢さんは、笑顔がいちばん素敵なんだから」
「……見て鳥肌が」
「いや、本気で言ってるんですけど。真顔で鳥肌見せないで下さいよ」
「だっていきなり少女漫画みたいなセリフ言うから」
「思ったことを口にしただけです。――つか、お嬢さん少女漫画なんか読むんスか。意外だなー」
「無理やり借してくれたのよ」
「はあ、無理やり。どなたが?」
「涼子(りょうこ)」
「っていうと……ああ、あの背のすらっと高い。そうですか、お嬢さん、お友達と仲良くなさってるんですね。偉い偉い」
「…………あんたはわたしの保護者か」
 月加はムッとした顔を作ったが、馬鹿にして言われたのではないことくらい、わかっていた。
 楓は、長いあいだ自分に友人がいなかったことを心配していたから。
 なんだか気恥ずかしさを感じて、それをごまかすように不機嫌な顔をつくってしまったのである。
「お嬢さん」
「なに」
「いつか、たくさん笑える日が来ますよ」
 そうだろうか、と月加は思った。屈託なく笑える、そんな日は自分には二度と訪れない気がする。
 変われる日など、想像もつかなかった。

   * * *

 カフェを出た二人は、車で元来た海沿いの道を走っていた。
 月加が過ぎ去っていく景色を眺めていると、歩道に散歩中の親子連れが見えた。まだ若い両親と、その間を歩く小さな女の子。女の子は両親と手を繋いでいた。
 月加は視線を外すと、そっと目を閉じた。
「お嬢さん、眠いんですか?」
 ミラー越しに聞かれて、「ちょっと」と小さな嘘をついた。本当は、眠くなどなかった。ただ、視界にいれたものが頭の中や胸の中でざわついて仕方ないので、瞼を閉じていれば落ち着くのではないかと根拠もなく思っただけだ。
 遠い記憶が、手繰(たぐ)り寄せたわけでもないのに蘇る。
 月加の特等席だった背中。その人が微笑む口元。断片しかない記憶のなかで、その人と月加は海岸沿いを歩いていた。ここではない、どこか異国の海岸を。
 夕暮れ時だった。
 詳しく覚えてはいないが、たぶん夕食までの散歩に出ていたのだろう。ゆっくりゆっくり歩きながら、その人は月加のために歌ってくれた。
 曲名は今でも知らない。外国語の歌だった。
 それを彼は、月加のための子守歌として歌ってくれていた。
 彼の顔も声も、もうはっきりとは思い出せないのに、あの歌だけは覚えている。
 最後に残ったそれだけは、忘れたくなかった。
 忘れて呑気に笑えるはずもない――――きっと、永遠に。
 

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