繋がらない金曜日 後編

 遊園地なんて何年ぶりだろうか。
 月加はあれほど嫌がっていたわりに、物珍しげにきょろきょろと園内を見回してしまう。
「アヒルいる?」
「がーがー君なら園内のどこかを風船持ってうろついているだろうから、そのうち遭遇できるよ」
 許婚も雑誌か何かで遊園地の記事を見たらしく、マスコットキャラクターの名前をきちんと把握していた。
「おみやげ買う?」
「あとでね」
 そう言って、許婚にごく自然に手をとられる。
「七瀬、観覧車が見える」
「そうだね。乗ろうか」
「うん……」
 カラフルな色の観覧車を見上げたまま上の空で返事をする月加に、七瀬は微笑んだ。

   * * *

 観覧車のあとはメリーゴーラウンド、その後はジェットコースター二種類に乗って、昼時になってお腹がすいたから園内のカフェでアヒルの焼き目がついたパンケーキと紅茶のセットを注文した。七瀬はベーグルサンドとコーヒーのセット。
「おいしい」
 にこにこと、珍しくもご機嫌で食べる月加の口元についたパンケーキの欠片を、七瀬が指先でとる。
「この後は何に乗りたい?」
「水の上走るやつ」
「いいよ」
 にこにこ。こちらもご機嫌な七瀬が、指先でとったパンケーキの欠片を口にした。
 それから二人は月加の希望通りの乗り物をいくつか楽しんで、その後お土産を買うことになった。どこもかしこもアヒルの絵の描かれたお店を巡っていたとき、月加は許婚が言った通り、ほてほてと風船を持って歩いているがーがー君を発見した。
「あ」
 小さな子供が群がっている。
 月加も握手して抱きしめて写真をとりたいと思った。
 ふらふら近づいていくと、がーがー君が月加と握手してくれた。背の高さは月加と同じくらいで、なのに手が大きい。すごいなぁ、かわいいなぁとうっとりする。赤い風船を貰った。ちゃんとがーがー君の絵がついている丸い風船と、それより小さなハートの風船、二つがセットになっていた。
 写真は残念ながら、携帯も忘れたしカメラも持ってきていなかったので撮れなかった。でも遭遇できたと満足しながら振り返ると、連れの姿がどこにもない。
 …………。
 七瀬が迷子になった。
「いや、わたしか……」
 一人突っ込みをして周りを見回し、近くのお店に入ってみるけどどこにも見当たらない。さて困った。携帯もないし、自分が迷子なのに相手を園内放送で呼び出すのも悪い。さすがにそれは悪いと思う。
 どうするかな、と思いながら、風船を握ったまま近くのベンチに座った。そろそろ足が疲れてきた。鈍い痛みも感じる。月加の脆い足は長時間用にできていないのだ。
「………」
 ぼんやり目の前の光景を眺める。
 平日だから来園者はそれほど多くはないけど、新しい遊園地だから閑散とはしていない。可愛い音楽がどこからか流れている。ジェットコースターの走る音や楽しそうな歓声が遠くから聞こえた。
「パパー抱っこー」
 目の前を通り過ぎる三人の親子。
 小さな男の子が若いお父さんに抱き上げられ、嬉しそうに笑った。その手には青い風船。月加ははるか頭上で浮かんでいるそれを見上げる。
「ゆうくん、よかったねぇ」
 こちらも若いお母さんが、とろけるような優しい微笑みで男の子の頭を撫でた。
 月加は見ていられなくなって顔を伏せる。
 だから遊園地は嫌いだ。
 いやだったのだ。
 柄にもなく浮かれていたことが悔やまれる。
 赤い風船が緩んだ月加の手から逃げていった。
 ざわめきは遠い。
 月加からは何もかも遠い。
 場違いなのだと思い知らされる。幸せはあっけなく壊れ、この手から消えていった。何も残らなかった。自分の命以外には。

「月加」

 呼びかける声にも顔を上げずにいたら、目の前にしゃがみ込んだ許婚がいつものからかいのない、優しいだけの口調で言った。
「そろそろ、うちに帰ろうか」
 あれはわたしの家じゃない。
 月加は思う。
 でも、あそこにしか戻れない。
「さあ」
 許婚の手は月加の頬をそっと滑り、膝の上で握り締めていた片手をとって、立ち上がることを促した。
「……アヒル、買ってない」
 不自然な声音で、感情を誤魔化すようにそう言えば、許婚は空いている片手に下げていた大きな袋を見せた。アヒルのぬいぐるみの頭が覗く。
「俺がお前に買ったから、問題ないよ」
「………」
 七瀬は月加を甘やかすことにかけては一流である。
 でも、それは危険だ。その甘やかしに乗ってはいけない。月加には分かっている。一度本気で甘えてしまえばもう戻れない。依存する。心を全て委ねて愛してしまう。いつ消えるとも知れない他人の存在に寄りかかるのは、危険だ。消えてしまったとき、また大きな傷を負う。そうなれば二度と、立ち直れはしないだろう。
 だから月加は七瀬を好きになってはいけないと己を誡める。本気で甘えてはいけない存在だと思い続ける。
「どうして優しくするの?」
 それに、七瀬に寄りかかれないのにはもう一つ理由がある。
 月加が訊いた言葉に、彼は本心の見えない微笑を浮かべる。
「お前を好きだからだよ」
 七瀬は嘘つきだ。
 本当は、誰にも、何にも興味がないくせに。
「わたしに構ったら、少しは楽しい?」
「そうだねぇ」
 と、許婚は否定することなくそう答え、月加の手をとったまま、ゆっくりと歩き始めた。
「可哀相な人ね」
 嫌味でもなんでもなく事実を言ったら、彼もまた事実を返す。
「お前ほどではないよ」
 と。
 月加はいつも思う。
 繋がっているのは手のひらだけだと。
 なんということはない。
 それが二人の関係の真実なのだ。決して心は繋がっていない。未来永劫、そうなることもないだろう。
「なんで遊園地だったの?」
 デートなら、他のどこでもよかったではないか。
 月加が許婚を見ずに訊けば、彼がかすかに笑う声が聞こえた。
「お前を傷つけるには、最適の場所だっただろう?」
「………………このド鬼畜の変人の冷血漢」
 月加はぶんぶん手を振って、繋がっていた許婚の手を離す。
 知っていたが、この許婚は本当にどうしようもなく歪んだ性格の持ち主である。優しくして、甘やかして、守るように包んでくれるかと思えば、こんな風に一気に突き放して残酷な言動をとる。
 昔からだ。
 それでも出会った当初はまだマシだった。今みたいに落差などなく、一貫して冷徹無表情無関心の嫌な奴だったから。
 振り払った手を、許婚がもう一度掴むようなことはしない。
 けれども、痛む月加の足に合わせ、歩調は緩やかだった。それは紛れもない気遣いなのに、どうしてこの人は。
「俺にしては過剰なまでに他人に優しくしてやりたいと思っているのに、当のお前が頑固で意固地で素直じゃないのがいけないんだろう?あっさり俺に寄りかかってこないから。だからつい、傷つけて弱らせて、この腕の中に落ちてくればいいと思ってしまうんじゃないか。俺を悪人にしているのはお前だよ」
「よく言う……。ていうか、別に勘違いなんかしませんけど一応言いますよ。今の言い方だと、まるでわたしのことが好きだから頼られたいとも受け取れます」
 その手段は激しく歪んでいるが。
 前だけを見つめて歩く月加の横から、笑いを含んだ声が答えてくる。
「お前のよくないところは、うっかり勘違いしてくれないところだね」
 勘違いなんかしたら、行き着く先は奈落に違いない。
「一生しないので、わたしのことは放っておいて下さい」
「放っておいたら淋しくなるだろう、お前は」
「ならない」
 きっぱり不機嫌に言い切る。
 七瀬がまた笑う。
 本当に可笑しがっているのかすら怪しい。たいてい、何にでも無関心な人間なのだから。
「素直にならないとアヒルあげないよ」
「………………」
 ちら、とそこで初めて許婚に視線を向けた月加に、彼はにっこり微笑んだ。
「汚いですよ。人質をとるなんて」
「ぬいぐるみ質の間違いだよ。ほら、言ってごらん、俺がいないと淋しいから一生傍についていて、って」
「な、ん、で、わたしがそんな気色の悪いこと言わなくちゃいけないのよ!」
 とうとう立ち止まって睨みつけると、許婚は底意地の悪い、本当に意地悪な眼をして見下ろしてきた。にこりともせず。
 ――――そう、これがこの人の素の顔だ。
 ちょっと怯んだ隙に、また許婚は仮面をつける。本心を全て覆い隠すように、微笑という名の仮面を。
「なら仕方ない。アヒルはうちに帰ったら焚き火にくべてしまうとしよう。火あぶりなんて、お前は残酷な子だね」
「だ、だれがそんな提案したのよ!かわいそうでしょ!?」
 ぬいぐるみ相手にそれを言った時点で、月加の敗北は決まっていた。
 ちくしょう、覚えてろよ。
「さ、さみ、」
「うん」
「淋しい、から」
「その調子その調子」
 月加の顔は真っ赤になっていく。無論、屈辱ゆえに。
 ええい、言えるかそんなこと……!!
「手ぇ繋いで帰ってもいいですよ……っ」
「ん?」
「だ、だから、手……」
 一生傍になんて、口が裂けても言いたくないから、代わりに提案したら。許婚はちょっと不服そうに片眉をあげたけれど、小さく消えていった月加の言葉に返すように、手をとってきた。
「まあ、今は妥協してあげよう」
「今じゃなくて一生妥協してくださいよ」
「考える価値もないことを言うものじゃないよ」
 七瀬はさらりと流して、ゆっくりと歩き始めた。
 繋いだ手で、不満げな顔の月加を促しながら。

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