「おかえりなさい。学校は楽しかった?」
おっとりと微笑む保護者を見上げて、月加は「はい」と小さな嘘をつく。
「そう、よかったわ。ところでね、今日お友達においしそうなエクレアをいただいたの。月加ちゃんと一緒に食べようと思って待っていたのよ。さ、手を洗ってきて。飲み物は紅茶でいい?」
保護者は返事を聞く前にもうキッチンに向かっていた。そこにいるお手伝いさんに紅茶を頼み、自分は白い箱を開けている。
月加は鞄を置きに二階の部屋に向かった。
保護者夫妻に与えられた部屋は、以前からこの家に子供がいたかのように壁紙から小物に至るまで見事に整えられていて、初めて見た時には少々戸惑った。たとえば童話のお姫様が眠るような天蓋つきのベッドや、ふかふかの絨毯の上に行儀よく座ったたくさんのぬいぐるみ達――――甘く可愛らしいもので溢れかえったそこに足を踏み入れるたびに、月加は誰か別人のために用意された部屋なのではないかという違和感に襲われる。
好みの問題もあるだろうが、とにかく落ち着けない部屋だった。
保護者夫妻はこれらすべてを『あなたのためのものよ』『きみのものだ。好きにするといいよ』と言ってくれたけれど、そう思うことは出来なかった。この部屋の中に、この家の中にある自分の本当のものは少ない。いま机の上に置いたばかりの学校指定の鞄も、中に入っている初等部二年の教科書も、筆記用具も違う。制服や、着替えた洋服も。
『本当のもの』は実用品ではないものばかりだから、小さなトランクの中にしまったままでいる。そのトランクは、今はクローゼットの奥でひっそりと眠っている。
月加は鞄の中から宿題のプリントが入ったクリアファイルを取り出した。
何枚かあるうちの一番上に、宿題とは違う二つ折りにしたプリントが入っている。学校で捨てることが出来なかったから、つい持って帰ってしまったのだ。
かといってこの部屋のゴミ箱に捨てると、後でお手伝いさんが回収した時に気づくかもしれない。どうするかな、と思って部屋の中を見渡して、そして閉じられたままのクローゼットで視線を止めた。
――――ああ、そうだ。それがいい。
月加は二つ折りのプリントだけをクリアファイルから抜き取って、クローゼットの扉を開けた。一階から自分を呼ぶ保護者の声がかすかに聞えるが、今は無視して小さなトランクを取り出した。
トランクを開けて、少しだけ中に入っているものを眺めてから、そっとプリントを仲間に加える。
もう一度自分を呼ぶ保護者の声が聞こえた。
「来てね」
それは不可能だと分かっていながら呟いて、月加は静かにトランクの蓋を閉めた。
小さなトランクは再びクローゼットの奥で眠る。
階段を下りていると居間のほうから明るい話し声がした。保護者とお手伝いさんの声だった。広い家の中で、人の話し声のする場所は妙に安心感がある。
居間に続くドアを開けながら、自分は恵まれているな、と月加は思った。
保護者がいて帰る家があって、おまけにお手伝いさんや世話係までいる。
でもそれらはすべて借り物のようなものだから、勘違いしてはいけない。
自分のものだと本気で思ってはいけないのだ。
* * *
「ごめんなさい遅刻しました」
そう言って初等部二年三組の教室に入ってきた人を見て、月加は目を丸くした。
瞬きの後、訝しげな視線を向けた月加に彼はニコリと微笑みかけ、担任教師に「代理の桧山です」と名乗った。それから今日の三者面談に月加の保護者が来ない理由を、どうしても仕事の都合がつかなかったためと丁寧な口調で説明した。それは今まさに月加が担任に告げようとしていた理由とほぼ同じだった。
つまり嘘なのだが、とても真摯な様子なのでまったく担任は疑いもしない。
普段はもっとふざけた態度と口調のくせに、と思いながら、月加は自分の隣の席に腰を下ろす世話係を横目で観察した。
スーツ姿に普段はしていない眼鏡をかけ、髪を後ろに撫でつけている。実際はまだ高校を卒業して間もないのだが、普段の明るいノリがないとやけに落ち着いて見え、ちゃんとした大人に見えなくもない。
数ヶ月前に出会ったばかりの世話係が、まさか三者面談の保護者代理まで務めるとは想像もしていなかった。彼は担任に月加の学校生活の様子を聞き、逆に自宅での生活ぶりについて問われ、少しだけ話をした。当たり障りのない会話を聞きながら、月加はあくびをこらえる。何の問題もあるはずがない。――――面談や参観日、その他学校行事の日程を保護者に黙っていたことを除けば。
「お嬢さんは悪い子ですね」
面談を終えた後、階段を下りながら彼は言った。
後ろにいる月加を振り返らないままの言葉だったので、それが本気なのか冗談を含んでいるのか浅い付き合いでは判断がつかなかった。別にどちらでも困りはしないのだが。
月加は何も答えずに彼を抜かして先に階段を下りていく。
その後をゆっくり追いながら彼は言葉を続けた。
「いちおう、紅(べに)さん達には報告しておきますよ」
保護者の名前を出されても、月加は振り返らなかった。
「誰も、お嬢さんのことで迷惑だとか面倒だとか思ったりはしません。紅さん達も、俺も」
だから今度からはちゃんと参観日も面談も演劇会も体育祭も、みんな教えてくださいね、と世話係は言った。出会って間もない、よく知りもしない子供のことに仕事とはいえ気を配りすぎではないか。おかしな人だと月加は思いながら、やっぱり返事はしなかった。ただ階段を下りきって、まだ四段ほど上にいる相手をちらりと見上げた。彼はニコリと微笑んで、「さあ家に帰りましょうか」と言った。
あれはわたしの家じゃない。
月加は思った。
だから「帰る」と言うのは違う気がする。
きっとそう言われる度に、これからも何度でも思うだろう。
校舎を出ると、おかしな世話係に手を繋がれた。
なるべく車には乗りたくなくて、かなり遠いが歩いて「戻る」ことにした。一人で「戻る」気だったのに、なぜか繋がれた手が離れない。
「いったんお嬢さんと一緒に帰って、乗って来た車はまた後で回収しに来ます」
この世話係は本当に変だと月加は思った。
途中で足が酷く痛んできて、それでも我慢して歩いていたら横から伸びてきた腕に軽々と抱き上げられる。月加は彼が誘拐犯に見えるんじゃないかと変な想像をしたが、おまわりさんに呼び止められるようなことはなかった。
そういえばこの世話係は面談のことをどこで聞きつけてきたのだろうと思って訊いてみたら、あまりにも学校行事のことを月加が話さないので、気になって一時間前に担任に電話して行事予定表を貰えないだろうかと相談したところ、たまたま今日が面談日であることを教えられたのだと言う。
「でも紅さん達、そろって出かけていて連絡つかなかったんで俺が」
「……ごめんなさい」
頼んだわけではないけれど、迷惑をかけたのなら謝らなければならない。月加は先ほどの「迷惑だとは思わない」という言葉を忘れて言った。
そうしたら彼は少し怒ったように――――いや、どこか困ったように言った。
「そういう時はね、お嬢さん。ありがとうって言って下さい」
月加は黙って彼を見た。
迷惑でしかないのに謝らなくてもいいのはおかしい。ましてやお礼を言うのは。
考え込んでいたら少しの笑いと共に告げられる。
「難しく考えなくていいんスよ。慣れてきたらそうして下さい。ね」
まだ納得はしていなかったけれど小さく頷きを返したら、彼はそれでも嬉しそうに笑った。やっぱりおかしな人だと月加は思った。
* * *
三者面談の日程表を眺めていると、その紙の上に影が落ちた。
「今年は二日目の一時半ですか」
「今年も来る気なの?」
月加の真後ろから日程表を覗き込んでいた楓は、「そりゃもちろん」とごく当たり前の様子で答えた。まさか中等部になってまで続くとは思わなかった月加は、少しの呆れと驚きとで彼を見る。本当に物好きだ。
「あ。でも紅さん達に頼まれるなら、俺は引きますけど」
「引きたいなら引いても良いけど」
「その場合、紅さん達にちゃんと来てもらいますよね?」
すっと視線を外してあらぬ方向を見た月加に、楓はため息を吐いた。
「困ったお嬢さんですね」
「どうせわたしは悪い子よ」
昔この世話係に言われた言葉を返すと、短い笑い声がした。
結局、今に至るまで月加はどの学校行事の日程も保護者に伝えたことがない。ただ彼らは楓経由で知って、都合がつけば文化祭や音楽祭くらいは眺めに来る。そのくらいの距離が月加にはちょうど良いのだと知ってくれているようだった。
面談や参観日にはいつも楓だけが来る。
頼んだことは一度もない。誰も来ないなら来ないでいい、と思う。もともと自分には誰もいないのだから。
でも楓は学校を通して調べたり、こうして人の手元を勝手に覗き込んでは日程表通りに学校に現れる。もはや一部の同級生達には「兄」と認識されていることなど露ほども知らないだろう。ちなみに月加は否定して説明するのが面倒なので放置している。「かっこいいお兄さんね」と同級生達に言われて首を傾げたりしながら。
庭の木のベンチに座っていた月加は、日程表を折りたたんで立ち上がった。
ここは許婚の家で、月加の居候先である。十ニの時、保護者の家から移ってきた。特に居心地が良いというわけではないけれど、保護者の家で「ここはあなたの家よ」と言われるよりずっと息がしやすい。
保護者の家はひどい環境では決してないし、彼らは人でなしでもない。
むしろ亡くなった母親の親友だったという保護者夫妻はとても優しく穏やかで、きっとこういう形で出会わなければ普通に接していられただろうと思うし、素直に好きになれただろう。
でも今の、この形では駄目なのだ。
馴染んでしまって、とけ込んで、境界線を踏み越えるほど好きになってしまったら、もう戻れない。
(わたしの家族は)
思い出の中にいる人達の他にはいない。増えることもない。
「お嬢さん」
楓が問いかけてくる。
「少しは慣れましたか」
強い風が吹いた。
振り返った月加の顔に、長い髪がかかって表情をうまく隠してくれたのでホッとした。微笑んだつもりだけれど、きっとそれはいびつに歪んでいただろうから。
「うん」
慣れるつもりなどない。
境界線は越えない。
越えたら最後、元いた側の大切な人達を忘れてしまう気がした。
それがずっと怖いのだ。
同時に、いつまで一人きりでいなくてはならないのだろうと思う。
両親の形見の上に置いた三者面談の日程表。
くだらないことをした。来られるはずもないと分かっていたのに。
でもそれは今でも小さなトランクの中にあり、大事な思い出と共にクローゼットの中で眠っている。