傍観者 前編

「九条、紗枝ちゃんと別れたんだって?」
 そう訊いてきたのは、同じクラスの橋本まりあだった。
 橋本は一年の時に同じ委員会に所属して以来、何かと響に話しかけてくる。今年同じクラスになってからは特に。
 趣味も性別も性格も違う物静かで目立たない人間に、よく飽きもせず話しかけてくるものだと響は思うが、別に迷惑しているわけでもないのでいつも適当に相手をしている。
「どこ情報?」
 読んでいた音楽雑誌に視線を戻しながら訊くと、響の座る机の斜め前に立つ橋本は、「里菜から聞いた」と答えを返した。
「リナって誰」
「誰って、紗枝ちゃんといつも一緒にいる子だよ。本間里菜。あたし部活が一緒なの」
「ああ……」
 そこまで聞いてようやく本間里菜の顔が頭に浮かんだ。
 おっとりした野々宮紗枝とは正反対のはきはきとした少女で、いつも口癖のように「紗枝を大事にしてよね。泣かせたらただじゃおかないから」と姉か母親のように言う相手だ。そういえば紗枝から告白された時に付き添っていたのも彼女だった気がする。
 今朝、半年付き合った紗枝に別れを切り出したのは響の方だった。
 彼女は少しだけ涙ぐんでいた。
 本間が彼女の異変に気づいて話を聞き出したのか、彼女のほうから本間に話したのかは分からないが、いずれにしろ本間にも橋本にも関係のない話だ。
「で?」
 響は顔を上げずに雑誌のページをめくった。
「で、って。紗枝ちゃん泣いてたらしいよ。なんで別れたの? 普通に仲良さそうにしてたのに」
 橋本はその淡々とした反応が気に入らないのか、少し非難めいた口調になった。
 よくまあ他人のことで怒ったり騒いだりできるもんだ、と響は冷めた感想を抱く。
 本当に橋本には関係のない話であるが、これ以上うるさく言われるのも面倒なので正直に話すことにした。
「気持ちがないまま付き合い続けることに限界を感じたから」
 さらりと告げた理由に、橋本は戸惑ったようだった。
「え、気持ちがないって、それって、途中から好きじゃなくなったってこと?」
「初めから好きでもなんでもなかった」
 橋本はその答えにあ然として、口を開いたまま固まった。
 間抜けな顔だな、と響は机に頬杖をつきながら彼女を見上げ、親切にも説明してやる。
「それは紗枝も知ってるよ。初めにちゃんと言ったし。『半年付き合っても好きにならなかったら、その時は別れるけどそれでもいいか』って」
 その際、付き添いでその場にいた本間が「馬鹿にするな」と我がことのように怒っていたのを思い出す。
「え、で、紗枝ちゃんは」
「了承したから付き合ってた。今朝までね」
 なんでもないことのように平然と話す響に、橋本はどう返せばいいのか分からなくなったように、無意味に口を閉じたり開けたりしていた。
 そこへ、台風のような勢いで教室の扉が開かれる。
 教室中に響き渡った扉の開閉音に、中にいた者はおろか廊下にいる人間もびっくりした顔で固まった。
「九条! このばかっ! 紗枝を泣かすなって言ったでしょうが!」
 さきほど会話に出た本間だった。
 彼女はずかずかと窓際の席にいる響の元まで歩いてきた。
 お節介焼きが二人もそろったことにうんざりとしながら、響は「怒っているわりに来るのが遅かったな」と火に油を注ぐようなことを本間に言った。
 すると本間は顔を真っ赤にしながら、「仕方ないでしょう! 休み時間はずっと紗枝についてたんだから! この昼休みにやっと落ち着いたから、それでようやく文句を言いに」と、えんえんと怒る。
 どうでもいいがそうやって人前で騒ぎ立てるのは、自分も迷惑だが紗枝にとっても迷惑ではないのか。なにしろ別れて落ち込んでいるという話をおおやけにされているのだから。
 響はそう思ったが、口にはしなかった。
 怒ることと『親友のためにがんばっている自分』に夢中になっている本間を放置し、再び雑誌に視線を戻す。良いギターが載っていた。今現在、真横の雑音がひどいので綺麗な音を聞きたいと切実に思う。橋本は自分も響を追及していたくせに、今は白熱する本間を止めようとしていた。どうも騒ぎすぎだと感じたらしい。
 そうこうするうちに別の声が聞こえてきた。
 紗枝だった。
「里菜ちゃん、もういいの! あの、ありがとう。もう教室に戻ろ……?」
「でも半年も付き合ってあっさり別れるなんて酷いじゃない! あんたもちゃんと怒りなよ!」
 ならばどういう別れ方だと良いのか。
 響は考えてみたが、あれ以上マシな別れ方など思いつかなかった。
 わあわあと叫ぶ本間の方を見ると、傍にいる紗枝は困っている様子だった。
 放っておいたら収拾がつきそうにないので、響は本間でも橋本でもなく紗枝に話しかける。
「紗枝、俺のこと殴っとく?」
 別れ話をした時にはただ涙ぐむだけだったが、もし怒っているのなら紗枝の気の済むまで殴られようと思った。条件をつけて気まぐれに付き合った自分に非があったのだから。初めからきちんと断っていればよかったのだ。
 けれど、紗枝は首を横に振った。
「ううん……、怒っては、ないから。悲しいけど……そういう約束だったし。わたしもちゃんと了承してたことだから、大丈夫。それより、ごめんね九条君。騒ぎになっちゃって……」
「俺は別にいいよ」
 そんな風に響と紗枝がわりと普通に会話をするのを見たせいか、いつの間にか本間は大人しくなっていた。猛獣と猛獣使いみたいだな、と響は思った。
 それから本間と紗枝が教室から退場し、教室内は一瞬静かになって、次にはがやがやと賑やかさを取り戻した。もちろん今見た修羅場が話題になっている。これは明日にはもっと話が広まっているかもしれない。あることないことごちゃまぜで。
 ひとつため息を吐いて、響はまたページをめくった。
 気がつけば橋本は自分の席に戻っていた。まだチラチラとこちらを気にしていたが、それは無視しておいた。
 彼女たちの代わりに響の机に近づいてきたのは、友人の相馬だった。
「お前よく平然とこの状況で雑誌読めるね」
「お前は楽しそうだな」
「うん、野々宮紗枝には悪いけどなかなか面白かった。食後の眠気がきれいに吹っ飛んだし」
「そりゃよかった」
 正直に感想を述べてきた相馬は、響の前の席を借りて座った。
「てことは、今日の放課後お前ヒマなんだ?」
 ほとんど紗枝と一緒に帰っていたので、確かに別れた今日からは暇である。
 けれど、響には別の先約があった。
「今日は無理。明日ならどこでも付き合ってやる」
「うん、まあ明日でもいいけどさ。今日はなに、用事?」
「用事」
「お前実は本命がいたりする?」
 響はわずかに視線を上げて相馬を見た。
 相馬はちょっと笑う。「内緒?」
「内緒」
 響は雑誌に載っている作曲家のインタビューに視線を戻しながら返事をした。
「フゥン……」
 相馬は少し興味を引かれた様子だったが、それ以上訊いては来なかった。
 代わりにこんなことを言った。
「お前って秘密多いよね」
「そうか?」
 響はやはり平然と返した。

back / 彼の子守歌 / next

inserted by FC2 system