七瀬と月加(1)

 溺れる。
 濃い闇に。
 どんどん広がっていくそれに。
 ――――。
 月加は叫んだ。
 叫んだつもりだったけれど、実際は恐怖にかすれてまともな声にもなっていなかった。
「……つ、き……」
 聞いたこともない弱々しい声が耳に届いて、気がついたら泣いていた。自分は今、大事なものを失いかけている、けれどどうすることもできないのだと悟って、ただ倒れているその人にすがり付いて喪失の恐怖に泣いた。いやだ、おいていかないで、とまるで言葉にすれば叶えられるかのように言い続けた。
 やがてどうにか聞き取れる程度のかすかな声が、すがりついたままの耳に届いた。
「………と、……は、る……を」
 まともな言葉になっていなかったのに、月加は正確に理解した。
 けれど、それに自分がどう返したのかは覚えていない。
 気がついたら、月加は真っ白なベッドの上に寝ていて、一緒に車に乗っていたはずの二人はいなくなっていた。
 鈍い頭だけを動かして窓の外を見ると、しんしんと雪が降っていた。
 どこもかしこも真っ白だ。
 あの夜の、闇に似た深い色の、自分を守るように抱えてくれていた母親から流れ出たそれは、まるで夢か幻のように消えていた。

   * * *

「――――月加ちゃん……?」
 ずっと窓の外を見ていた。
 雪はまだ降っている。いったいどのくらい降れば気が済むのだろう。
 聞き覚えのない女性の呼びかけにも振り向かず、応えもせず、ただその四角い枠の向こうにある白い世界を見ていたら、ギシッと自分の横になっているベッドがきしむ音がした。
 女性が腰かけたのだ。
 それでも月加は視線を向けなかった。
 けれど、女性のやわらかな、傷一つない綺麗な手のひらがそっと自分の頬を撫でたので、ようやくそちらを見上げた。
 長い髪を横でゆるく一纏めにした着物姿の若い女性は、なぜだか悲しそうな、寂しそうな顔で微笑んだ。
「はじめまして、月加ちゃん。こうして会うのは初めてね」
 今にも泣きそうなその人は、こう続けた。
「わたしは紅というの。あなたのお母さんの友達よ」

   * * * 

 大きな屋敷だった。
 月加は長い廊下を歩きながら、庭の方へ視線を向けた。建物自体も立派だが、敷地が広いだけあって庭もどこかの公園かと思うような立派な造りである。
 ため息を吐く。それは別に庭のすばらしさに感嘆したわけではなくて、慣れない着物が窮屈で仕方ないせいだ。
 早く楽な洋服に着替えたい、と思いながら立ち止まり、蕾の開きかけた桜を眺めていた時だった。
 ふと、白くて大きな毛玉が庭の植え込みの下に消えていくのが見えて、月加は興味を引かれた。……追いかけてみようか。
 ちょうど「どうでもいいお茶会」に退屈していたところだし、どうせ一人くらい減ったところで誰も気づきはしないだろう。なにしろ一族の主だった人間が勢ぞろいしているとかで、かなりの客数だ。自分のような子供も何人か来ているし、みんなそれぞれに歓談していたから、ちびっこが一人いないところで、お手洗いにでも行っているのだろうくらいにしか思われないはずだ。
 まぁ、さすがに自分の保護者たちは気づくかもしれないけれど。
 月加は廊下の柱に寄りかかった。
 お茶会など早く終わればいいのに。
 自分はここに集まった人々にとって、異質な存在だ。本来、この家の集まりに参加する資格のない赤の他人なのだから。
 保護者たちにもそう言って参加したくない意思を伝えてみたけれど、聞き入れてはもらえなかった。
 ただ、できることなら月加の意思を尊重したかった、とは言ってくれた。その思いは本当だろう。彼らはいつも気を遣ってくれて、月加の嫌だと思うことを強要したことなどなかったから。今回は事情が特別だったのだ。
『ちょっとした顔合わせを兼ねた、一族のお茶会なの。月加ちゃん、うちで一緒に暮らすことになったでしょう?だから、本家や一族の皆さんにもお知らせというか、ごあいさつしておかなくちゃならないの。ごめんなさいね、古い家だから、そういう変なしきたりみたいなものがあるのよ』
 そう申し訳なさそうに説明された月加は、お世話になっている身でそれ以上拒否するわけにもいかず、仕方なく今日こうして本家とやらに来ることになったのである。
 あいさつは名前と「よろしくお願いします」程度でいいと保護者に教えられていたので、そのようにした。
 言葉はなめらかに出た。
 問題は、向けられる視線だった。
 気にしていたら身が持たないだろうから、なるべく無視するように心がけた。自分の一族のなかに、何の関わりも持たない子供が紛れ込んでいる、そんな異質なものを見る眼、親を亡くしたことへの哀れみや同情めいた眼、なぜそんなものを引き取ったんだという呆れた眼、どこの馬の骨だと蔑む眼、さまざまだった。
 それらを一身に受けながら、月加は耐えた。
 ――――自分は好き好んでこの場にいるわけではない。馬鹿にされるいわれもない。
 そう思いながら、挑むように周りをゆっくりと見回して、あいさつの最後に綺麗なお辞儀をした。その所作も保護者に教わっていた。
 月加が恥をかかぬように、見くびられぬように、彼らは彼らなりに守ってくれようとしているのだと感じた。
 けれど、こんなことは大したことではない。守ってくれなくても、自分は平気だ。値踏みされるような視線がなんだ。つらくなどない。
 いったいこの中のどれだけの人間が、自分以上の絶望を味わったことがあるというのか。
 綺麗に着飾って幸せそうに笑い合うあなたたちの、どれだけが。
 一緒に死んでしまいたかったと、自分の命をないがしろにするような思いを抱いたことがあるのだろう。
 たいした不幸も知らないで。
 たとえ保護者となってくれた人たちのように、この先も優しくして、手を貸してくれる人々がいたとしても。
 それでも自分は一人きりだとしか、月加には思えない。今はとてもそんな風にしか思えない。
 その心細さや悲しさや苦しみに比べれば、こんな視線は露ほども月加を傷つけない。
 けれど、自分と同じ年頃の子供たちが親の傍にいて、「たいくつだ」とでも言っているのか、袖を引いたり耳打ちしたりする様子からは目を背けた。
 一秒でもこの場にいたくはないと思った。
 だから逃げてきた。お手洗いに行くふりをして、初めて来た家の長い廊下を、あてもなくただ歩いてきたのだ。

back / 彼の子守歌 / next

inserted by FC2 system