月加は一度玄関のほうに引き返し、自分の草履を取って来てから庭に下りた。
先ほどの白い毛玉が消えた植え込みに近づいてみたけれど、どこにも姿が見えない。どこに行ったのだろう。もう近くにはいないのか。
少しがっかりしていると、ニャァ、という小さな鳴き声がどこからともなく聞こえ、月加は庭の奥へと足を向けてみた。
ニャァ、もう一度それは鳴いた。
白い大きな花びらの落ちている小道に入った。なんという花かは知らない。少しだけ変色していた。
その先には赤い花が落ちていた。これは知っている。保護者の家にもあって、お節介な世話係が『椿ですよ』と教えてくれたのだ。
彼は今日ここまでの運転手だった。保護者たちに続いて車に乗り込む前に、そっと囁くように『無理しちゃいけませんよ』と言われたが、月加はそれを無視して顔を背けた。余計なお世話だと思った。
後部座席に乗ろうとして、月加はそこで固まった。先に乗っていた保護者のうちの一人――――紅の隣に、大きなクマのぬいぐるみが座っていたからだ。前に乗ったときにはいなかったのに。
『ゲーセンでとったんですけど、俺いらないんでお嬢さんにと思って。サンドバックにするなり枕にするなりお好きにどうぞ』
ゲーセンっていうのは、ゲーム機のたくさんあるところだとか、クマはその景品なのだとか、どうせ安物だから遠慮なく、とか世話係は説明を付け加えてくれたのだが。
ちょうど紅との間に座るクマの毛並みや姿形は、決して安物のそれではなく、首にかけられている光沢のある赤いリボンだって、子供の目から見ても質の良さが分かる代物だった。
前に、両親から誕生日プレゼントに買ってもらった大きなうさぎのぬいぐるみを思い出した。抱きついたらとても手触りが良くて、それは月加のお気に入りだった。
「うーちゃん」と名づけたそれは、残念なことにうっかり外国のホテルに置き去りにしてしまい、もう手元にはない。
空港からホテルに連絡したら、忘れものとして保管しているということだったので、日本での用事が済んだら取りに戻ろう、と両親と約束していた。
でも、その約束は守られなかった。
「うーちゃん」はもう処分されているかもしれない。
月加は「うーちゃん」を買ったときのことをよく覚えている。おもちゃ屋で両親と一緒に選んだそれは、他のに比べて、ずいぶんと高価だったのだ。
目の前のクマの足元についているタグに、それと同じブランドのマークが入っていた。
こんなものが景品として出回るのか、ゲーセンとやらを知らない月加には分からないが、安物でないことだけは確かだ。
月加は世話係を胡乱げに見たが、彼はただにっこり笑って、そのまま運転席についた。
『よかったわね、月加ちゃん』
クマの価値になど興味がないのか、紅はおっとりとした口調でただそう言った。クマが大きすぎて、月加には彼女の頭のてっぺんと膝から下しか見えなかった。
『お前こんなでかいもん、良くとれたなぁ』
『けっこう得意なんで』
紅の夫で、もう一人の保護者である刀治(とうじ)は、世話係とそんな会話をしていたけれど、彼はちょうど月加の前に座っていたので、こちらも後頭部くらいしか見えなかった。
やがて静かに車が動き出して、月加は身を硬くした。
自分がどこにいるのかを意識し始めたら、もう駄目だった。心臓がうるさくて、目を開けていられなくて、すがれる何かがほしくて、無意識に伸ばした手で月加はふかふかの毛皮に触れた。懐かしい質感だった。同じブランドなのはきっと偶然だろう。「うーちゃん」のことなど、世話係が知るはずもないのだから。
顔を押し付けて、誰にも気づかれぬようにひそかに呼吸を整える。
きっとこれはそのために用意されていたのだと気づくのと同時に、やはりこの世話係はとんでもなくお節介だと思った。
月加が車を苦手にしていることを知っているのは、彼だけだ。保護者たちは知らない。初めて一緒に乗ったときに、普通に、平気なふりをしたから。
普段から話しかけられなければ話さない月加が、車中で黙りこくっていても、投げかけられる言葉に「はい」「いいえ」しか答えなくても、いつも通りに大人しいと思うだけで、何の違和感も抱かないのだろう。気づいている様子はなかった。
世話係は、保護者たちには何も言わないでいてくれている。
月加が彼に、両親や事故のことで心配されたり気遣われたりするのが嫌なのだと、はっきり口にしたことはないけれど、察しが良いのでちゃんと分かっているらしかった。
今、たぶん、自分のことを一番理解しているのはあのお節介な世話係なのだと、月加は足元に落ちている椿を避けて、俯き加減に歩きながら思う。
彼は保護者たちのように、ありがたいけれど息苦しくなるほどの過剰な気遣いや思いやりではなくて、ずっと前から傍にいたような自然な態度とさりげない優しさで接してくれる。
でも、あの世話係は自分の家族ではない。
家族でも、血縁者でもなくて、本来知り合うはずのない他人で、仕事だから色々と世話をやいてくれている人だ。勘違いしてはいけない。
もし保護者の家に本当の娘がいたら、彼はその子の世話係になっていただろう。
だから、与えられた部屋や物と同じように、あの世話係も本来自分のものではないのだ。単に借りているだけのものだ。
分かっている。自分の持っているものは、両親との思い出をしまった小さなトランクだけ。他にはなにもない。あるとすれば財産くらいで、温もりを持たぬものしか、もう残ってはいないのだ。
『………と、……は、る……を』
パキ、と足元で音がした。
見れば細い枝を踏みつけていて、立ち止まった月加はそろりと足をよける。半分に割れたそれを見ながら、思い出す。
最期の願いを、とてもかすかな声で告げられたこと。
その願いを、叶えられなかったこと。
幸せだった日々の中で、母親はよく言っていた。
『何かあったとき、ママがいなかったら、パパとハルを頼るのよ』
だから、あの寒くておそろしい、人生が変わってしまった夜、まともな言葉にもなっていなかったけれど、彼女が何を言いたかったのかすぐに理解できたのだ。
(だけどママ)
(その二人だって、もういないんだよ)
月加は心の中で呟いた。