七瀬と月加(3)

 薄暗い小道を、月加はようやく抜けた。
 すると、急に開けた場所に辿り着く。本当に広い庭だ。あまりウロウロしていたら、迷子になるかもしれない。
 大きな池の側に、白い猫が丸まっていた。でっぷりした白い毛玉のような姿だ。
 そして、そこにいたのは猫だけではなかった。
 スーツ姿の一人の少年が、猫の前にしゃがみ込んで、その背をゆっくりと撫でていたのだ。
 思わず足を止めて見ていると、ふいにその少年の手の動きが止まり、癖のない真っすぐな前髪からのぞく切れ長の一重の目がこちらを見た。
 それは感情の窺えない瞳だった。お茶会に来ている他の子供たちの無邪気な瞳とは、まったく異なる静けさを感じた。
 月加を捉えたその眼差しは、けれどすぐに興味なさげにそらされる。
 彼は再び猫の背を撫でながら、こちらに顔も向けずに言った。
「……目障りだから、消えてくれないかな」
 柔らかな口調と穏やかな声音に似合わぬ毒舌に、月加は面食らった。
 それなのに、なぜか足は彼に向かって歩き出していた。
 どうしてそうしたのかは、後から思い返してもはっきり分からない。他の子供とは明らかに異なる雰囲気に興味が湧いたのかもしれないし、消えろと言われて消えるほど素直で聞きわけが良くなかったので、反発心からそうしたのかもしれなかった。
 いずれにせよ、近づいて関わるのではなかったと後に月加は思ったり思わなかったりすることになるのだが、この時点でそんなことが分かるわけもなく。
 言われたことなど無視して、すぐ傍まで近づいて顔を見下ろして、あ、と気づいた。
 彼はお茶会で、一番初めにあいさつした大人たちと一緒にいた少年だった。この本家の跡取りだとかいう、名前はたしか。
「……七瀬?」
 思い出したら、同時に声になって出た。
 別に呼びかけたわけではなかったのだが、七瀬は顔を上げぬまま、淡々とした口調で言った。
「気安く呼んでもいい許可なんて、与えてないよ。……あと、消えろと言ったのが理解できなかった?」
 その声には、苛立ちも怒りも、何も感情らしいものが込められていなかった。
 でも、月加は感じが悪い、と思った。
 ……まぁ自分も同じくらい無表情に相手を見ているけれど。
 月加は返事もせずにしゃがみ込み、そろりと白い毛玉に触れようとした。
 その瞬間、こちらが気づくか気づかないかくらいに七瀬がほんのわずかに眉を寄せたのが分かって、月加は反射的に指先を離した。ふわふわの毛先が、指をかすめる。
「お前は言葉が分からないのかな」
 今度のは、多少の感情が込められていた。
 嫌味を含んだ言い方に、月加は別の国の言葉でしゃべってやろうかと思ったが、止めた。外国暮らしをしていたとはいえ、日本語も難なく話せることはすでにあいさつした時点でバレている。嫌味に嫌味を返して、喧嘩にでもなったら、保護者に迷惑がかかる。
 もしこれで素姓が知られておらず、外国語だけを喋っていたら、容姿に父方の祖母の影響が出ているので、「ああコイツ日本語わからないんだな」と思わせられるかもしれないけれど。
 月加はこの三つ年上だとかいうすかした面の少年が、ちょっとばかり驚く様を見てみたいと思ったので、ついそんなくだらないことを考えてしまった。
 猫を見つめたまま、月加はちゃんと日本語で言葉を発する。
「この猫あなたの?」
「……人の話を聞かない子だな」
「あなたもね」
 同じように質問を無視されたので月加はそう返し、少し考えて、猫にこう呼びかけてみた。
「ねこ」
「…………」
 七瀬も猫も無反応だった。
 長い毛の、白い背中を、少年特有の骨ばった手が一定の間隔で撫でているのを見つめながら、自分も触ってみたいと月加は思い、また言った。
「しろ」
「…………」
「ホワイト」
「…………」
「ブランシュ?」
「もしかして、名前を当てようとしてる?」
「そうだけど」
「お前、猫に『ねこ』はないんじゃないの」
 平坦な声音に、少し呆れが混じった気がした。
「白い毛玉?」
「ごみか」
 突っこみが入った。
 けれど、猫は一瞬ぴくりと耳を動かした気がした。
「……毛玉、は違うから……」
 猫は丸まったまま、月加をじっと見上げている。
 ホラホラ、はやくアタシの名前を当てて御覧なさい、とでも言うように。オスかメスかも分からないが。
「白いねこ」
「………シラタマだよ」
 なかなか当てないからか、いつまでも続きそうなのがわずらわしかったのか、七瀬は答えを言った。
 月加は瞬きする。
「どんな意味?」
「食べ物」
 簡潔に答え、七瀬が白玉を抱きかかえて立ち上がったので、もう一度触ってみようとした月加の手はむなしく宙をさまよった。
 ケチだな、と思いながら見上げたら、静かな、何を考えているのか読めない眼で見下ろされる。
「触らせてやる、なんて誰が言った?」
 独占欲が強いのだろうか。
 月加は考えながら、自分も立ち上がろうとした。
 けれど、中腰になったところでバランスを崩した。
 ズキリと痛んだのは片方の足。
 変な体勢でふらついたので、このままだと倒れこむと分かったが、掴まるものなど何もない。
 そのとき、月加の目の前に七瀬の手が差し出された。白玉を抱いていない方の手。
 月加は何も考えず、反射的にその手をとろうと自らの手を伸ばし――――けれど、宙を掴んだ。余計にバランスを崩す。
 手を避けられたのだと分かったときには、もう地面に倒れた後だった。
「助けてやるとも、言ってないよ」
 全くにこりともせず無感情な眼をして、無様に倒れたままのこちらを見下ろしながら、七瀬は言った。
 ――――足が痛い。
 変な風に力がかかったのかもしれない。あまり役に立たない足を月加は忌々しく思う。
 けれど、それでも大事な身体の一部だ。
 母親の腕でかばわれ、守られた身体の。
 だから、大事にしなくてはいけないのに。
 間抜けだな、と月加は自分を笑う。
 笑おうとした。
 でもどんな形であれ、笑顔など出ない。無理につくらない限り、出るはずもない。
 本当に痛むのは足ではなくて、心かもしれない。苦しくて、悲しくて、寂しくて、泣き叫びたいのにそうできない、保護者やお茶会に来ている大人たちに向けて、形ばかりの笑顔を浮かべたり、思ってもいない言葉ばかりを紡ぐしかできない、まるで自分ではないみたいな自分ばかりをつくる、心かもしれない。
「消えろというのに、消えないからだ」
 七瀬はそう言い捨てると、背を向けて立ち去ろうとした。
 そうできるものならそうしている、と月加は思った。
 思うだけで消えられるなら。
 他人の世話になって、大事な人のいない場所で、無理に笑って良い子であろうとするしかできない人生ならば、生きていないも同じに思えて。 
 そんなことは何度も思った。
 でも、消えるわけにはいかないのだ。
 この命は守られたものだから。
 両親がそれを尊いものだと、一緒にいた短くも幸せな日々の中で教えてくれていたから。
 だから月加は今、この場で泣いて七瀬の言葉を肯定するよりも、反発して怒る道を選ぶ。保護者に迷惑が、とかいうのはどこかに吹っ飛んでいた。
 月加はもともと負けず嫌いで、気が強かった。口数も決して少なくはなかったし、大人しいよりはお転婆だった。今とはまるで違った。
 何かがふつふつとお腹の底から湧き上がってくるのを感じながら、月加は痛む足を無視して身を起こした。去っていく七瀬の背中を睨みつける。
 
 ――――――――嫌な奴。

 単純に、ただそう思った。
 そうしたら、その瞬間ずっと澱の底で静かにしていた本来の自分が、やあ久しぶりと顔を出した。
 ずっとあの日から白黒みたいだった世界が、時が止まったかのようだった世界が、急に鮮やかに動き出したかのようだった。
 月加は半分脱げていた草履を足から引き抜くと、座り込んだ状態のまま、思いっきり振りかぶった。
 そしてそれは、ものの見事に七瀬の後頭部に命中する。
「――って」
 彼は顔をしかめてこちらを振り返った。
 何か言われる前に、月加はその顔めがけて残るもう片方の草履を投げつける。
 が、それは七瀬の手によって受け止められた。
 白玉が彼の腕の中から「騒々しい」とばかりに逃げて行くが、どちらもそれには眼もくれず、互いに睨み合う。
「この……チビ」
 七瀬が初めて苛立ったような声を上げた。
 後に、月加は七瀬のそんなあからさまな苛立ち方は見たことがなく、あれは想定外すぎて思わず頭にきたんだな、と思うのだが、それはまた別のお話。
 七瀬の投げ返した草履は、月加の肩あたりに命中した。
 その勢いに身をすくめている間に、すたすたと傍まで戻ってきた七瀬は月加の頭を地面に押さえつけた。
 ゴッ、と嫌な音を聞いた後、目の前が一瞬チカチカした。
 手加減なんてない。年下だろうが異性だろうが関係ない、ただ腹立たしい。そんな相手の心情が伝わってきて、これは怒らせたらけっこうやばいタイプの人間なのだな、と月加は分かったのだが恐れは抱かなかった。
 ほんとうの恐怖はすでに知っていた。
 それ以上に恐ろしいことなど、もはや何もありはしない。
 じろりと睨むと、押さえつけてくる腕の向こう、切れ長の冷たい眼と視線が交わった。
 次の瞬間、七瀬の手から急に力が消えた。
 なんだ、どうした、もうおしまいかと月加が好戦的に考えているうちに、彼は身体を起こして立ち上がった。
 後に聞いたところによると、年下であるはずのこちらの異様な落ち着きぶりに、一気に冷静さが戻ったという。
「……変な奴」
 きっぱりはっきりそう言った七瀬に、そりゃお互いさまだ、と月加はまたしても倒れたままの状態で思った。
 なにしろ三つ年上とはいえ、まだ同じ小学生であるはずの七瀬には、年相応の子供らしさの欠片もない。落ち着き払って、冷めていて。感情というものが欠如しているみたいに見えた。
 でも、今のは違った。こちらを睨んで突き倒したあれは、感情任せで子供っぽかった。
 何も言葉を返さずにいると、七瀬は倒れた月加を置き去りにして、今度こそどこかに去って行った。
 一方、月加は地面に寝転んだまま、よく晴れた空を見上げた。
 澄んだ空気が肺を満たす。
 足がまだズキズキしているけれど、そんなことより、この台無しの着物と、ぐしゃぐしゃになっているであろう髪をどうしよう。
 誤魔化すのが面倒くさいな、と考えながら、なぜだか月加は妙にすっきりした気分だった。
 しかし、それにしても。

 ……あー、嫌な奴だった。
 
 もう二度と関わるまい。
 おそらく「本家の跡取り」に草履を投げつけた暴挙については、大人たちに言いつけたりはしないだろう(さらなる報復がしたければ、さっきみたいに自分でやり返してくるはずだ)から、立場に物を言わせて仕返しされる心配はしていないけれど。
 不愉快になるだけの相手だと分かったから、そう思った。
 たぶん向こうも同じことを思っただろう。

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