七瀬と月加(4)

「う、わぁ……お嬢さん」
 どうしちゃったんです、と世話係はこちらを一目見るなり、そう言った。
 手にしていた水のペットボトルをテーブルに置いて、畳の上を大股に歩いてくる。
「庭で転んだ」 
「転んだ……?」
 平然とした態度の月加を、彼は訝しげに上から下まで観察した。疑うのも無理はない。
 自分一人で転んだにしては、一体どんな転び方をしたらそうなるんだ、というような髪の乱れ方だし、着物の汚れもかなりの範囲だったから。
 月加は考えた末、お茶会の席には戻らずに、使用人控え室にいる世話係のもとへ来たのだ。来る途中に誰とも会わなかったことや、控え室にたまたま自分のところの世話係しかいなかったのは幸運だった。
 もし、他の家の使用人と鉢合わせていたら、たちまち一族中に良くない噂が流れたことだろう。そのくらいの想像はつく。
 月加は何を言われても気にしないが、保護者たちまで悪く言われることは避けたい。
「何か上に羽織ったりするものない?」
 そう訊いたら、世話係は、はぁ、と息を吐いてから言った。
「本家の方に言ったら、たぶん着物を用意してもらえるでしょう。誰かしらのお古があるはずです。ついでにお風呂も借りられるか訊いてみます。……………で、その前にちょっと確認なんですがね、お嬢さん?」
 世話係はちょっと月加を窺うような眼を向けた。
「実はさっきですね、そこの窓の外で本家の若様をお見かけしたんですが。服を払っておられまして。変だなぁと。あの若様ね、いつも物静かで、他の子供たちと一緒になってヤンチャするようなタイプじゃないんスよ」
「……あ、そう」
「お嬢さん、もしかして関係あります?」
 と、えらく勘の良い彼は月加の汚れた着物と、手に持っている足袋と草履を見下ろしながら訊いた。
 草履は元置いていた玄関に戻すために持って入り、汚れた足袋は廊下に土を落としてはいけないので脱いだのだ。
「関係ない」
 さらりと口から嘘が出た。
 嘘をつくのは、とても簡単だ。

『月加ちゃん、好き嫌いは?食べられないものがあったら、遠慮せずに言ってね』
『――――大丈夫です、なんでも食べられます』
 
『このお洋服ね、月加ちゃんに似合うと思って、つい買っちゃったんだけど……こういうの嫌いじゃない?着られる?』
『――――すごく可愛い。うれしいです。大事に着ます』

『月加、今日は三人で動物園行こうか。紅がお弁当つくってくれるって。さぁ、出かける用意しておいで。あ、動物園、嫌いじゃないかな?何なら遊園地でも』
『――――いえ。動物園、好きだから。楽しみです』

 いつのまにか、ものすごい嘘つきになっているな、と月加は己を振り返って思った。
 本当は、好き嫌いが多くて、フリルのたくさんついた服は苦手で、親子連れの多い、賑やかな場所には近づきたくなかった。
 こんなことは思っちゃいけない、何様だ、と分かっているけれど。
 それはまるで、家族ごっこだった。
 吐き気がした。
 実際、動物園に行ったときにはトイレで吐いた。
 人の多さに酔ったのだろう、と保護者たちは、月加にとって都合のよい勘違いをしてくれた。助かった。
 だって本来、ありがたいとか、うれしいとか、たのしいとか、そういう思いを持たなければいけないのに、家族みたいに優しくしてもらえることや手を繋いでもらえることに対して跳ね除けたい衝動に駆られるなんて、あってはならない。
 そんな立場にない。
 だから、嘘をつくしかない。
 こんな自分を引き取ってくれた、恩ある人たちを傷つけないように、平気な顔で嘘をつくしか。
 でも、月加の嘘は、この世話係には通じなかった。
「ないならいいですけどね。でも、お嬢さん……」
 ふ、とおかしそうに世話係は笑った。
 あっさり見破られる。
「意外にお転婆なんっスね」
「…………」
「俺もっと、内気なのかと思ってましたよ」
 月加は何も答えなかった。
 ただなぜ、この世話係は着物を汚したことを叱ったり、本家の跡継ぎと何があったのかを追求したりしないのだろうかと考えた。
 なぜ、かわりにニコニコ笑いながら頭を撫でるのだろう。
 世話係はその疑問に答えるかのように、こう言った。
「元気が良くて、なによりです」

   * * * 

 二度と関わるまい、そう思っていた。 
 なのに一週間後、
「あなたの許婚ですよ。仲良くね」
 と、大人たちに互いを紹介されるとは、微塵も予想していなかった。
 月加はそう告げられたときの七瀬の顔を、今でもはっきり覚えている。
 誰も気づかない程度の、ほんの一瞬。
 彼はものすごく嫌そうな目をして、それから物静かで聞き分けの良い本家の跡取りらしく、「……よろしく、月加」とわざわざ名前を呼び、つくり笑顔で握手まで求めてきたのである。
 月加はべしりとその手をはたいて言い放った。
「気安く呼んでもいいって、許可した覚えありませんけど」
「…………」
 保護者に迷惑が云々、というのは、もうなんだかこの相手を前にしては考えられなかった。そのくらい気に食わないというか、反抗心が湧いてきて。
 引き取られてからこの方、大人しく従順だった月加のその態度に大人たちが驚く中、変わらず穏やかに微笑む許婚となった少年の、その眉がぴくりと動くのを見たのも、おそらく自分だけだったに違いない。
「……ああ、それはゴメンね?」
 許婚は微笑みを浮かべたまま、冷え冷えとした声で言った。
 大人たちはそれにも驚いていた。
 他人に対して常に公平で、穏やかな態度を崩さない七瀬が、そんな風に感情的な一面を覗かせたのが珍しかったのだと、月加が聞き知るのは少し先。
 こうして、二人の奇妙な関係は始まった。

back / 彼の子守歌 / next

inserted by FC2 system