白玉アイスクリーム(1)

「あんたってさ、なんか弱点ないの?」
 手にしている算数の答案用紙を後ろから覗き込んできたクラスメイトが、そんなことを言った。 
「弱点知ってどうするの」
 穏やかな声で訊き返しながら、七瀬は『クラスで唯一満点だったんだぞ』と担任から褒められた、かなりどうでもいい補足付きのそれを、半分に折りたたんでファイルにしまった。
 後ろの席にいる相手は、「別にどうもしないけど」と前置きして続ける。
「勉強も運動も人並み以上で、なにやってもソツなく器用、おまけに世渡り上手で、見る限り弱点なさそーだから単純に疑問。つか、あんた人生つまんなくない?」
「……」
 七瀬は無言で、初めてちゃんと後ろの席を振り返った。
 耳に銀色に光るものがいくつかついていた。
 髪の色が不自然に茶色い。
 校則違反、という言葉が真っ先に出て来る。
 名前はなんだったか。同じクラスになるのは今年が初めてだったはずだ。そういえばしょっちゅう親を呼び出されている問題児が同じ学年にいると聞いたことがあるが、なんとなく誰のことか分かった。
 相手の机の上を見る。堂々と表向きに置かれた答案用紙の右上に、赤ペンで書かれた点数は、12。……12? 七瀬は思わず二度見した。
 その下に、『もっとがんばろう!君はやればできる子だ!先生は信じてる!』と、自分の答案用紙では見たこともない励ましのメッセージが書かれていた。
 最高100点のテストで12点しかとれなかったら、そりゃ担任も思わずそう書きたくなるかもしれない、と七瀬は思った。
 相手の質問には答えずに言う。
「俺にはどうやったらその点が取れるのか、そっちの方が疑問だけど」
「そう?」
 言葉にわずかな嫌味が混じったが、相手は動じず、にへらと笑った。
 おかしな奴、と七瀬は思いながら、心にもない謝罪をする。
「……ごめん、嫌な言い方だった」
「や?気にしてないし」
「なら、よかった」
 七瀬は安心したような微笑みをつくった。
 
   * * *
 
 学校から家に帰ったら、客間で許嫁が待っていた。
 待っていたというか、ただ「いる」というほうが正しい。
 週に一度、大人たちに言われて親睦を深める名目で会いに来るのだが、七瀬はまともに彼女の相手をしたことなどないし、向こうもこちらのことはほぼ無視している。一応同じ部屋にいるだけで、会話などないに等しい。
 七瀬はいつも通り許嫁を放置して、学校で出された宿題に無言でとりかかる。
 そのテーブルから離れたところで、彼女は人の家の猫を勝手にかまって遊んでいた。白玉という名の、文字通り白くてまるっとした猫は、自分以外の人間には懐かなかったのに、この許嫁にはどうも気を許しているらしく、撫でられようが抱きかかえられようが大人しくしている。
 裏切りものめ、と七瀬は思いながら、最後の問いを二分もかけずに解いた。
 ふと、妙に静けさを感じて許嫁の方を見れば、彼女は廊下側の柱にもたれて眠っていた。
 開け放した障子の向こうから、心地良い風が入ってきて、その色素の薄い柔らかそうな髪をなびかせている。
 母親の言葉を思い出した。
『綺麗な髪ねぇ、あの子。色白だし、お人形さんみたい。紅が可愛い服着せたがるのがわかるわ。――――やっぱり、女の子っていいわねぇ』
「……」
 七瀬は許嫁の横で丸まっている白玉を回収するため、静かに立ち上がった。
 抱き上げると、ニャァ、と腕の中で鳴く。
 ちょっとアタシは良い気持ちで寝てたのよ、と抗議された気分になった。
「……タマ、お前、俺よりコレのほうが好きなのか?」
 そんなくだらない質問を投げかけてみたが、白玉はもちろん答えない。大きな瞳でこちらを見上げるだけだ。
 七瀬はため息を吐いた。
 足元にいる、三つ年下の許嫁はよく眠っている。規則正しく肩がかすかに上下していた。
 この許嫁は一体何をしにここへ来ているのだか。
 ――――大人たちに言われて、だというのは無論知っているが、それにしても寝ないだろう、普通。他人の家でわざわざ。
 思い返せば先週も、その前も、来るたびに昼寝している。こちらが放置しているせいで退屈しているにしても、ありえない。
 夕方にこれだけぐっすり寝て、よくそれで夜に眠れるものだと七瀬は呆れながら思った。

   * * *

 今日は二人で映画でも観て来なさい、と母親に勧められ、七瀬は許嫁を連れて日曜日の人ごみの中を出かけることになった。
「……観たいのは?」
 一応希望を訊いてみたら、「ない」という返事だったので、七瀬は適当に選んでチケットを買った。
 お互いに愛想笑いどころか、目も合わせないままでの会話だった。
 初めからどちらも乗り気ではなかったし、いっそこの場で何も観ずに解散したいところだが、あとでちゃんと行ったかどうか半券を確認するとまで言われているので、そうもいかない。
 母親は、この許嫁の件に関してはやけに口を挟む。
『優しく接してあげなさいね。あの子、とっても内気で繊細らしいから。まだ紅たちにも完全には慣れていないみたいだし、何か困っているみたいだったら、あなたがちゃんと相談に乗ったり、力になってあげなさい。年も近いし、許婚なんだから』
 自分の息子は年中ほったらかしのくせして、他人の娘のことはよくそれだけ心配できるな、と七瀬は思ったが、思うだけで口にはせず、いつも通りに微笑んで『はい』と聞き分けよく返事をしておいた。
 本心を語ることに意味はない、と七瀬は思う。
 両親も祖父も一族の人間も、本家の跡継ぎにふさわしい言動しか望んでいないし、そもそもこちらの胸の内なんかに感心を持っていないのだから。
「ほら」
 七瀬は大きな柱にもたれて待っていた許嫁に、彼女の分のチケットを渡してやった。
「……いくら?」
「費用なら二人分持たされているから、お前が出す必要はない。何なら、もらった半分を渡しておくけど」
「いい……」
 許嫁は短く、頑な雰囲気で答えた。
 基本的にこの許嫁は口数が少なく大人しい。一番多く喋ったのが、あの最悪な初対面の日だ。あのときは、白玉への強い興味がそうさせたのかもしれない――――どうでも良いことだが。
 仄かな照明に照らされた通路を、黙り込んだまま二人で進む。時々ほかの客とすれ違ったが、話し声が響かないせいか、ずいぶん静かに感じられた。
 後ろからついてくる、ほんのかすかな足音が耳に届く。
 七瀬が少しだけ振り返ると、許嫁が怪訝そうな顔をした。
「なに?」
「いや……」
 答えて、七瀬は先ほどより心持ち歩調を緩めた。
(……足が悪いのか)
 映画館までは許嫁の世話係だとかいう人間に車で送ってもらい(なぜか後部座席の真ん中に大きなクマのぬいぐるみが鎮座していて狭苦しかった)、チケット売り場は騒々しい歩道のすぐ目の前だったので、今この静けさの中を歩くまで気づかなかった。
 そもそも一緒に歩くこと自体が初めてで、まともに相手の姿を観察したこともなかったのだ。
 初めて会った日のことを思い出す。
 立ち上がろうとしただけで、この許嫁は簡単にバランスを崩した。
『ご両親と一緒に、車の事故に遭ったそうだ』
 父親があのお茶会の日に、彼女やその保護者と挨拶を交わした後に言っていた。そのときも七瀬は相手の姿になど関心がなく、まともに見てはいなかった。
 彼女が引き取られてきた事情を聞いても、気の毒にとも、可哀相にとも、なんとも思わなかった。けれど。
『お気の毒ですね』
 たぶん、父親にはこう返したはずだ。
 正確には何と返したのか覚えていない。そのくらい、一族に新たに加わった少女のことなど、どうでもよかった。
 ――――後ろ頭に、草履を投げつけられるまでは。
 あの日ひと通りのあいさつが済んだ後、七瀬は客人の来ない奥の庭へ、ひとり足を運んだ。少し息抜きをしたら、お茶会の催されているほうの庭へ戻るつもりで、たまたま池の前に丸まっていた白玉をかまっていたのが。
 そこへ、この少女が現れたのだ。
(間の悪い)
 七瀬はそう思った。
 きっと普段の自分なら、遭遇しただけで『目障りだから消えろ』とは言わなかった。
 思うには思うだろうが、それでもそんな本心は呑み込んで、かわりに優しい言葉をかけて、客人が談笑している庭へ、なんなら相手は自分より小さい女の子だから手を繋いで連れて行ってやっただろう。
 それが周囲の望む、本家の跡継ぎとしての正しい姿だから。
 ところが、あの日は朝から不調でそうする気力も余裕もなく、普段とは違う言動をとってしまった。
 つまり――――、微笑みも温厚さも優しさも誠実さも親切さも、何一つない本来の自分のままで彼女の相手をしたのだ。
 おまけに一言そうして言葉をかけたら、後はもう取り繕うのが面倒になった。いつもより頭がズキズキと痛んでいて、まともに思考が働いていなかった。後で振り返って、そう思った。
 頭痛はたまに起きる。
 良い子ちゃんぶりっ子のストレスだろう。市販の薬はあまり効かない。
 あのとき、彼女は猫に触りたそうにしていた。
 けれど白玉は自分の頭痛薬である。あの白くて長い毛並みを撫でていたら、いつもそのうち痛みは引いてきて、不思議と治っているのだ。
 撫でる権利を譲らなかったら、突然『ねこ』と彼女は言った。
 猫だけど、それがなんだと訝っていると、続けて出て来る単語。見たままの名前候補の最後が、『白いねこ』。
 そんな名前の猫がどこにいる、と七瀬は思った。
 世界のどこかにはいるかもしれないが、少なくとも自分の猫の名前は違う。白い毛玉とまで言われた憐れな猫の、正しい名前を教えてやった。そうしなければ、えんえんと名前当てが続きそうでうっとうしかった。
 シラタマ、と聞いて彼女は意味を問いかけてきた。外国暮らしでは、聞きなれぬ単語だったのかもしれない。
 ついでに一応教えてやってから、白玉を抱えて立ち上がった。相手が去らないのなら自分が去ろうと思った。
 その寸前、白玉に触れようとした小さな手には気づいていた。
 しかし触らせてやる義理などない。
 かわすように抱き上げたことで、『どうして触らせてくれないの』とでもいうような恨めしげな眼で見上げてきたので、そこでも七瀬は口が滑った。どうもありのままの自分は意地が悪くていけないな、と痛む頭の奥で自覚しながら。
『触らせてやるなんて、誰が言った?』
 その後だ、このちびっこが一人勝手にバランスを崩したのは。
 今、うしろから、わずかに不規則な足音がついてくる。
 大人たちは馬鹿だ、と七瀬は思う。
 こんな自分の、見せかけの優しさや穏やかさを信じて、彼女を任せているのだから。
 どう関わろうと、自分ではこの許嫁の心を癒してやることなどできないのに。
 ――――――そう、七瀬には分かっている。
 両親や祖父、許嫁の側の大人たちもはっきりとは言わないが、この関係は自分のためのものではないと。
 両親は、一族の人間に対して『身内で年の近い少女を選んだ』とか『頭もよく器量の良い娘だから、跡継ぎの許嫁には良いだろうと思った』とか適当に理由づけて説明していたが、そもそも逆だ。
 七瀬のために月加が選ばれたのではなく、月加のために七瀬が選ばれたのだ。
 深い傷を負った、寂しげな目をした少女を憐れに思い、その子を立ち直らせるために、『誰に対しても優しく、穏やかで、思いやりのある良い子』をそばに置く。
 これは大人たちが考えた、彼女のための策だ。
 けれど、完全に人選を誤っている。
 いつになろうと何年経とうと、自分が傍についていたところで、この子が自らどうにかしない限り、悲しみから立ち直ることはできないだろう。
 本当に、大人たちは馬鹿だ。
(俺が何をどう考えているのか、思っているのか、本当のところは何ひとつ知りもしないで)
 よほど――――出会ったばかりの許嫁のほうが、『七瀬』がどういう人間かを分かっている。
 この許嫁は、自分に優しくされることを望まない。
 冷たく接しても、無関心に放置しても、初対面がそうだったから、それが『七瀬』なのだと正しく理解して距離をとっている。こちらと同じく、歩み寄る気は微塵もない、といった風に。
 彼女が自分に懐くことは未来永劫ありえないだろう。
 自分が彼女に好意を抱くことがないのと同じように。
 今は大人たちの言う通り、おとなしく一緒にいるけれど。
 自分たちの関係は、何も変わらぬまま、いずれ静かに終わりを迎えるだろう。



back / 彼の子守歌 / next

inserted by FC2 system