適当に選んだ映画はあまり人気がなかったようで、上映時間が近づいてもポツリポツリとしか人が来ず、大半が空席だった。
七瀬は真ん中の列の、後ろのほうの席に許嫁を座らせ、自分だけ再び外に出た。一瞬このまま置き去りにしてやりたい衝動にかられたが、こらえた。
上映室前の広い通路の隅にある自販機で、自分用にスポーツドリンクを買った。ついでに一応、許嫁の分も選ぶ。何が好きなのか知らないし、いるかどうかも訊いてこなかったので飲まないかもしれないが、砂糖とミルク入りの紅茶にした。
別に親切心から買おうと思ったわけではない。飲食代も母親から渡されているので、ほどほどに使っておけば、それなりに楽しんできたのだと判断するだろうと思ってのことだ。
七瀬はこれまで誰かにうるさく口出しされたり、注意されるといったことがほとんどなかった。そうされるのがわずらわしいので、たいてい先に自分で気づいて言動に注意していたからだ。
(なのに最近は)
七瀬は自販機のボタンを押した。
――――許嫁が原因で、そのわずらわしさを感じるはめに陥っている。
ゴトン、とペッドボトルの落ちてきた音がした。
初めて会った日、こちらが手を差し出すフリをしたら、彼女はものの見事に引っかかって余計にバランスを崩し、ボテンと無様に転がった。
綺麗な着物は汚れ、丁寧にセットされた髪は崩れて台無しで、泣くかと思ったがその気配はなく。
なぜか泣かせてやりたい衝動が押し寄せて、
『消えろというのに、消えないからだ』
と、トドメまで差した。
いかにも大人しく繊細そうに見える、周囲の大人いわく『大変な目に遭った可哀相な』年下の女の子が、こちらの言葉や態度にどれだけ傷つこうがショックを受けようが知ったことではない、泣くなら勝手に泣け、と『良い子』の仮面など忘れて、どこか投げやりに思った。
しかし、そうはならなった。
弱々しい見かけと立場に反して、相手は生意気にも歯向かってきた。頭痛のしているところへ、見事にゴツンと何かを命中させ。
顔をしかめて振り返れば、けっこうな勢いで草履が飛んできて、直前に命中したのはその片割れだと気づいた。
視線をやれば、悔しそうな、一歩も引かぬ強い眼差しとぶつかって。
頭がガンガン鳴っていた。
そして痛む頭と、生意気なソレと、その行動を予測できなかった自分にまで苛立ちが募り、やがて限界を迎えたのである。
あんなに感情的になったのは初めてだった。
後で冷静になってから、七瀬は自分の両手を眺め、押さえつけた頭の感触を思い出した。
あの生意気で可愛げのない眼とあのまま睨み合っていたら、相手の異様な落ち着きぶりに我に返らなければ、一体どうしていただろうか。
自分は冷静だと思っていたが、実はその箍(たが)は、案外もろいのかもしれない。
またその箍が外れたら、今度はこてんぱんに泣かすまで気が済まなくなりそうだ、と七瀬は感じた。
自分は『誰に対しても優しく、穏やかで、思いやりのある良い子』、であるはずなのに。
そうであることしか、誰にも望まれていないのに。
だから今度彼女に会っても必要以上に関わるまい、と思った。
あれは、ろくなことにならない相手だ。
きっと向こうも同じように思っていたことだろう。
それが一週間後また会って、そのうえ大人たちに「お前の許嫁だ」などと言われるとは思いもよらなかった。
案の定、そこでも七瀬は軽く地が出た。
生意気を言うソレに苛つき、大人たちの前で相手に冷たく接してしまったのである。
そして、それがいけなかった。
以来、二人の仲に一抹の不安を覚えた周囲の大人たち――主に自分の母親――から、いちいち口出しされるようになったのだ。
『あなた、ほかの子にはもっと優しい気がするけど……』
『どうしたんだ? いつものお前らしくない』
『気になる子には意地悪するタイプなのか?』
などと、いい加減うんざりするほど言われ続けている。
最後のは特に本気でいい加減にしろと言いたくなる。学校で自分のことを好きだと言ってくる少女はけっこういるが、それらとアレの中から誰か必ず選べと言われたら、アレはまず間違いなく選ばない。
年齢差や外見の問題ではなく、中身の問題だ。あんな凶暴な生き物は見たことがない。草履が顔面めがけて飛んできたことは、おそらく生涯忘れないだろう。まるで噛みつき亀だ。大人しそうに見えるくせして、容赦なくがぶり。
口も達者だ。許嫁としての第一声が、
『気安く呼んでもいいって、許可した覚えありませんけど』
という、こちらが先日言った言葉をそっくり返した、強烈な嫌味。
あれのどこが、『とっても内気で繊細』なのか分からない。
しかも、自分の母親などはその可愛げのなさを目の当たりにしておきながら、『緊張していたのねぇ、きっと。でも可愛くて、良い子だと思わない?』と言った。どう解釈したら、そうとれるのだ。
両親も祖父も、許嫁側の保護者も、七瀬に許婚関係の本当の目的を教えぬまま、素知らぬ顔をして仲良くしろと強要してくる。
『月加はお前のために選んだ子だ。きっと良い関係を築ける』
母親と同じく、息子になど興味の欠片もなかったはずの父親までもが口を挟み、根拠のない意見をいう始末。そのうえ言葉の前半の正しくは、『お前は月加のために選ばれた』であるくせに。笑わせてくれる。
大人たちの白々しい言葉の羅列が頭の中に引っかかる。考え続ければ鈍く頭が痛んでくる。白玉を撫でていなければ、この痛みは治まらない。酷くなる一方だ。
けれど、今は外出中だから白玉はいない。
自分たちを二人きりで出かけさせ、無理やり距離を縮めさせようとする、大人たちの見え透いた策に捕らわれている最中だから。
そうと分かっていながら、抗うこともなく。
(アホらしい)
許嫁に関することは、実にその一言に尽きる。