白玉アイスクリーム(3)

『あんた人生つまんなくない?』
 唐突に、誰かの声が頭に響いた。
 そんなことは言われずとも分かっている。
 いつからか次第に何も楽しいとは感じられなくなってきて、今では意識して作らなければ笑顔など出ない。
 教室でクラスメイトたちが笑う。担任の冗談に、おどけた仲間の言葉に。昨日のテレビの話題に。自然に作られるそれらを見ながら七瀬も笑う。笑った仮面をつける。
 本当は、どんなことにも感情は揺らがなかった。
 心はいつも冷めていた。

   * * * 

 一つ席を開けて座っていた許嫁が立ち上がったのは、映画の本編が流れ始めて間もなくのことだった。黙って上映室を出て行く姿にチラリと目をやって、七瀬はまた前を向く。
 トイレにでも行ったのだろうと思った。それにしては妙なタイミングだが。
「……」
 スクリーンには、異国の少年とその家族の食事風景が映し出されていた。静かな、ゆったりとした音楽が流れている。
 落ち着いた雰囲気の映画で、あらすじなど全く知らないが、まぁ観られなくもなさそうだと七瀬は思う。
 それから十分が経過した頃、ずいぶん許嫁が戻ってこないことに気がついた。
 七瀬はスポーツドリンクを一口飲んで、もう五分待ってみることにする。
「………………」
 彼女は戻ってこなかった。
(トンズラしたか)
 そう思い至り、静かに席を立つ。幸い後ろに人はいないので、他人の視界を遮らぬように配慮する必要はなかった。
 足元の小さなライトを頼りに暗い中を歩き、重たい扉をわずか開け、身を滑り込ませるようにして外へ出た。
 上映室の前の広い通路には、自販機のほかに、次の回を待つ人のための椅子が用意されていたが、さすがに今始まったばかりなので誰もいない。ついでに許嫁もいない。
 通路を曲がったところにあるトイレにいるのかもしれないと思ったが、自分が確認に入るわけにもいかない。そこらの女性に見てきてもらうにしても、人っ子ひとりいないので不可能だ。チケット売り場や売店のあるロビーに出てから、映画館の人間に頼むのも面倒くさい。
「……まぁいいか……」
 放っておこう。
 許嫁がトイレで倒れていようが、どこで何をしていようがどうでもいい。自力で家に帰れぬほど幼くはないのだから、放っておいても問題ないだろう。
 半券も手に入れたし、向こうが親に何も言わなければ、放置した事実を責められることもない。
 そして許婚は、たぶん誰にも何も告げない。
 あのお茶会の日のことも、何があったのか誰にも話していないようだし、もし責めるというなら、彼女はきっと誰にも頼らず自分の口で直に言ってくるか、また履き物を投げつけてくるだろう。
 よって、たいして興味もない映画をそのまま一人で見続ける意味もないので、七瀬はそのまま帰ることにした。チケット代はもったいないが、家に帰って白玉を撫でるほうが数倍有意義だと思った。
 ところが、七瀬は映画館を出てすぐに、許嫁の姿を見つけてしまった。
(いっそ帰っていればよかったのに)
 目障りなちびっこだ。
 面倒で、生意気で、可愛げもない。取るに足りない。本当は関わりたくもない相手。
 七瀬は確かにそう思っていた。
 けれど、なぜなのか。
 映画館の目の前の、歩道沿いにある街路樹の真下。
 騒々しく人々が行き交う中にあって、一人ぽつんと木のベンチに座る彼女の周りだけが、静かで、寂しく浮いているように見えて。
 七瀬の足は、そちらに向かって歩き出していた。
 放っておくことなど簡単だったのに。
「……お前、何してるの」
 黙って映画館の外に出ていたことに対して、そう言った。
 別に責めたわけではない。理由に興味もない。
 ただ、なぜ近づいてしまったのか自分で分からない状態で、他にかける言葉がなかっただけだ。
「…………」
 見上げてきた許嫁の顔色は、青ざめていた。両手で握り締めているものに気がつく。自分が買ってやった、紅茶のペットボトル。その白い手は、わずかに震えているように見えた。
「携帯は」
「持ってない……」
 愛想のない、しかし普段より弱々しい声が返ってくる。
 七瀬は自分の携帯電話を取り出して、「お前の家の番号は」と訊いた。迎えを呼ぼうと思ったのだ。
 ところが。
「……ない」
「は……?」
 いかにも具合が悪そうにしているくせに、冗談など言っている場合か。
 呆れながら、七瀬は自分の家に電話をかけた。
 出たのは年配の女性使用人だった。家にかけて、家族が出たことなど一度もない。
「もしもし、七瀬ですが。いま駅前の映画館前にいるんですが、許嫁の具合が悪そうなので迎えの車をお願いします。…………はい、一応そうして下さい」
 会話をしていると、許嫁がふらりと立ち上がった。
 なぜかそのまま背を向けて立ち去ろうとしたので、七瀬は眉根を寄せて会話を切り上げる。小さな背中を追いかけた。
「どこに行く気だ」
「歩いてもどる……」
「戻るって、どこに」
「紅さんたちの家」
「……」
 おかしな言い方をする、と七瀬は思った。
 そこに自分も住んでいるのだから、『自分の家』だと言えばいいのに。
 この許嫁は、保護者となった人間の家を自分の家だとは思っていないのか。
 端から見ても分かるほど、本当の親のように彼らに可愛がられ、人前ではその愛情に応えるかのように笑顔を浮かべているくせに。
 そこを自分の居場所だと受け入れているかのように、素直に振舞っているくせに。
 『帰る』ではなく、『戻る』と言った。
 何も受け入れてなどいない、何よりの証しに。
(恩知らずな奴……)
 七瀬はただ、そう思った。
 自分よりもはるかに背の低い許嫁の腕を掴み、足を止めさせる。
「もう少ししたら車が来るから、動かないでここに座ってろ」
「いい、乗らない。自分で歩いてもどる」
 意固地だな、と七瀬はとうとうあからさまに顔をしかめた。
 そんなに他人の世話になるのが嫌なのか。
 苛立ちの波が七瀬の心に押し寄せる。
 たった今、行き交う人々の中で、頼るものもなく俯いて、一人きりで座り込んでいたくせに。
「放っといて、大丈夫だから。そっちに迷惑もかけないから」
 青い顔をして、弱々しい声で。
 それでも嘘をついて、余計なことにまで気を回して。
(馬鹿な奴)
 複雑で、仄暗い、明るさとは無縁の、できることなら誰にも頼りたくなどないという矜持のかいま見える瞳に、七瀬は苛立ちをあらわにした自分の姿を見る。

『あの子のこと、支えてあげなさい』

 それは誰に言われた言葉か。
 大人たちの誰かだ。誰でもいい。どうせ誰でも同じだ。一方的に要求してくるだけ。
 そのうえ、何も分かっていない。この許婚が、本当は誰の助けも借りたくないと思っていることを。具合が悪くなった、たったそれだけのことにさえ。
 これは、全部を自分一人で抱え込もうとしているようにしか見えない。そんなものに、本当に支えなど必要なのか。
 放っておけばいいのだ、こんな意固地な人間は。なぜ自分がこんな苛立つ相手の子守などしなければならない。当人に必要とされてもいないのに。傍についていても、助けなど求めやしないのに。
 ――――苛立たしい。無駄な矜持や虚勢が、今のお前に本当に必要だと思っているのか。そんなものは、そこらのドブにでも捨ててしまえ。
 毒を含んだ言葉が、そう思う七瀬の口から滑り落ちる。
「お前、すでに他人に生活の面倒見てもらって、そのうえ事あるごとに世話を焼かれている状態で、今さら人に迷惑がかかるとか考えて遠慮する意味があるのか」
「――――」
 許婚の目が、ことさら大きく見開かれる。
 図星をついたな、と苛立ちの向こう、ひどく冷静な頭で思った。
 今度こそ泣かせるかもしれない。
 けれど別にかまわない。
 この許嫁が泣こうが傷つこうがどうでもいい。
 泣くなら勝手に泣け。
 初めて睨み合ったときと同じことを思う。
 今もまた、涙の滲んだ生意気な目と睨み合いながら。


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