学校から家に帰ったら、白玉が縁側で丸まっていた。
「ただいま、タマ」
抱き上げて優しくひと撫ですると、白玉はニャァ、とあくびのような鳴き声を上げた。
おかえり、と言われた気がした。
七瀬は白玉を抱いたまま、客間へと向かう。
開け放たれたままの障子の向こう、テーブルの前に座っていた許嫁が、こちらの足音を聞いて振り返った。先にこちらから声をかけてやる。
「いらっしゃい」
「……お邪魔してます。こんにちは」
「はい、こんにちは。ごあいさつが良くできました」
来たくて来てるんじゃない、といった不機嫌な顔を隠そうともせずに挨拶をした許嫁を、七瀬は冷ややかに見下ろしながら、馬鹿にしたように応えてやった。
すると、相手はことさらムッとした様子になる。
(ああ面白い)
週に一度、この許嫁はあいかわらず顔を見せに来る。
ただし、大人たちに言われているからではない。
『来ないなら来ないでいいけど……、そうしたら俺は、お前が俺を恐れて逃げ出したものとみなす』
七瀬がそう挑発しておいたので、予想通り負けず嫌いを発揮して、のこのこ遊びに――――いや、遊ばれに来るのである。
「宿題は?」
許嫁は制服姿なので、今日は学校から直に来たのだろう。ならばまだ宿題は済ませていないはずだと思い、七瀬がそう訊くと、ふてくされたような声で彼女は答えた。
「……まだ」
「教えてやろうか?」
「いらない」
きっぱりすっぱり断り、黙ってテーブルに宿題のプリントを広げ、黙々と問題を解き始める。
七瀬は肩をすくめ、白玉を足元に下ろして座った。
とりあえず、自分も宿題にとりかかることにした。
それから数分後、珍しく家にいた母親がお盆を持って現れた。
「いらっしゃい、月加ちゃん」
「お邪魔しています、小母様」
許嫁は筆記用具を置いて、丁寧にお辞儀した。自分に対するときとはずいぶんな違いだな、と七瀬は思う。口調も声音も態度も。
今は愛想がよく、微笑みまで浮かべている。
なのに、その瞳は笑ってなどいない。人形のように感情がない。
自分と睨み合っているときには、あれほど強い輝きを放っているのに。
――――うっかり思わず見惚れてしまうほど。
「今日は暑いでしょう。冷たいものでも召し上がれ」
母親はそんな作り物めいた様子に、一瞬だけ気の毒そうな目を向けて、にこりと笑ってアイスクリームの乗った硝子の器をテーブルに置いた。
「ありがとうございます……いただきます」
そう言って許嫁が銀のスプーンを手に取ったのを見届けて、母親はチラリと七瀬に視線を送ってきた。
こちらに対しては少々言いたいことがあるらしい。
「七瀬、ちょっと」
笑顔のまま、母親は手招きしてきた。
「何です?」
「いいから、ちょっと来なさい」
「……」
七瀬は許嫁を部屋の中に残し、母親と共に廊下へ出た。
部屋も廊下も、ちょうど庭の木々のおかげで日陰になっていて、冷房をつけずとも涼しい。母親は少し歩いて、振り返った。
先ほどまでの笑顔などどこにもなく、仏頂面に変わっている。
「あなた、あの子に何も酷いことしていないでしょうね……?」
「人聞きの悪い」
七瀬はきょとんとした顔をつくり、それからゆるりと微笑んだ。
「きわめて親切に、やさしくしています」
「だけどあなた……」
何を言いかけたのかは分かる。
『だけどあなた、あの子のこと嫌いなんでしょう』
それはもはや、周知の事実だった。
初めて許嫁と出かけた、数週間後の日曜日のことだった。
居間に、両親と祖父が揃っていた。
いつも仕事か趣味で、おのおの外出なり部屋にこもるなりして姿が見えないのに、珍しいこともあるものだと思いながら、七瀬が『出かけてきます』と声をかけると、母親が話しかけてきた。
『月加ちゃんと?』
『ええ』
頷くと、満足げな笑顔を向けられて。
『上手くいっているのね。最近じゃ、わたしたちが何も言わなくても遊びに誘って、仲良くデートに出かけているみたいだし。――――きっとあなたも気に入ると思っていたのよ。あの子は大人しいけど物怖じしないし、賢いし。お人形さんみたいに可愛いしねぇ。……やっぱり女の子っていいわ。早く大人になって、お嫁さんになさいな。そしたら月加ちゃん、わたしの娘にできるし』
『……』
それが最良のことだと信じ込んでいるような口調に、七瀬ははっきりと苛立った。
当人たちの意思も確認せず、勝手なことを。
気がつけば、腹の底で滾る怒りとは真逆の、冷めた口調で淡々と答えていた。
『結婚するまで一緒にいる予定もなければ、そもそもあんな生意気なチビを異性として見ているわけでもないので無理ですよ。今のところ一緒に出かけているのも、別に言いつけを守っているわけじゃありません。あれは、俺が遊びに誘えばとても嫌な顔をして反発するんです。それを言い負かして、思い通りにして、悔しがらせるのが面白くて……それだけの理由です』
そこで七瀬は目を細めた。
傍目には、たいそう意地悪く映るらしい微笑みを浮かべながら。
『まぁ、確かにそういう、苛めがいのあるところはカワイイと思いますけど』
『……………………は?』
母親は口をぽかんと開けたまま、凍りついた。
その場にいた父親や祖父も目を丸くして固まっていたし、お手伝いさんにいたってはびっくり眼をこちらに向けたまま、傾けたままの急須から湯飲みにいつまでもお茶を流し続けていた。
七瀬はそうした反応には一切かまわず、ついでに言っておいた。
『それと母さん、娘がほしければ自力でなんとかして下さい。まだイケルでしょう。あんな面倒くさいのをわざわざ娘にする必要はありませんし、俺も嫁にするなんて真っ平ご免です。確実に向こうも望んでいないことですし』
そして、まだあ然呆然としている彼らを残し、七瀬は非常にすっきりした気分でその場を後にしたのだが。
以来、家では、学校以上のたいへん複雑な視線を浴びている。
無理もないことだ、と七瀬は思う。
なにせ彼らからしてみれば、『物心つく頃から温厚で物静かで優しい気性、何ひとつ欠点などない』と思っていた完璧な子供が、急に人が変わったかのように振舞い始めたのだから。
「あなたは」
言いかけた母親の言葉を遮るように、七瀬は嫌いな相手にやさしくする理由を告げる。
穏やかな口調で、微笑みさえ浮かべて。
「あれは、俺にやさしくされるのを嫌がるんです。それが可笑しくて、可笑しくて」
「…………ちょっと待ちなさい。嫌がらせでやさしくしているの?」
「それ以外に、俺があれにやさしくしてやる理由なんてありませんが」
「な、なくはないでしょう。許嫁なのよ、あなたの!」
なんてことを、とあ然とした様子の母親に、七瀬は言い返した。
「押しつけられたものをどうしようが俺の勝手です。あれは、俺の、許嫁なんですよね?――――つまり、俺のものだ」
「七瀬」
目を見開いた母親の瞳には、困惑がはっきりとあらわれていた。
「今さら返却しろなんて言いませんよね?すでに一族中に本家跡継ぎの許嫁として、お披露目しているんですから。反対する連中を押し切って、強引に」
「……かまわないわ。月加ちゃんがあなたじゃ嫌だと言ったら、すぐにでも許嫁をやめさせてあげるつもりよ。もともとそのつもりで決めていたんだから。……だけど、前のあなたなら大丈夫だと……きっとあの子を立ち直らせてくれると信じていたのに」
「勝手に期待して勝手にがっかりしたことを教えられても、困りますね。だいたい立ち直りたいとか理解者が欲しいとか、それ、本人がその口で望んだわけではないでしょう。端から、余計なお世話だったとは思わないんですか」
「あなた本当に……どうしてしまったの」
「どうもしてません。元からこうです」
「そんな馬鹿なこと」
「まぁとにかく、あれは俺が飽きるまで、手放す予定はありませんので」
七瀬は踵を返して部屋に戻りかけ――――途中で振り返って言った。
「あと……、許嫁をやめるとは、あれは自分からは絶対に言いませんよ」
逃げ出したとみなされたくないから、絶対に降参などしないだろう。
まったく自分の許嫁は、見事すぎる負けず嫌いである。
いっそ感嘆してしまうほどに。
まだ何か言いたそうな母親を残し、七瀬は今度こそ歩き出し、許嫁のいる部屋に戻った。
「良い子で待ってた?」
人のいぬ間にちゃっかり白玉を奪い取り、膝に乗せて撫でていた許嫁にそう声をかけると。
「うるさい、馬鹿」
もう聞きなれつつある、そんな可愛げのない答えが返ってきた。
七瀬は口の端をゆがめて笑う。
本当に生意気なちびっこである。
自分の席に戻り、溶けかけているアイスクリームを食べようとしたときだった。
七瀬は、ふと気づいてスプーンを持つ手を止め、許嫁をまじまじと見つめた。
「……」
「……なに」
「いや、別に…」
七瀬は視線を戻すと、白いアイスクリームをすくって口に入れた。
冷たさと、バニラの味が口の中に広がる。
許嫁も自分のスプーンを手に取った。ひとすくいし、ぱくんと食べる。一瞬、その無表情が冷たい心地良さにほころんだのを、七瀬は視界の端で捉えた。
(……ホント、馬鹿だな)
別に嫌いな相手が戻るまで、食べるのを待っていなくてもよかったのに。
先に食べていれば、溶けないうちに食べられたのに。
(可愛げがあるんだか、ないんだか)
黙々と食べる静寂に、チリンと風鈴が音を添えるのを聴きながら、七瀬はいつの間にか当初のような苛立ちを、許嫁に抱かなくなっている自分に気づいたのだった。