七瀬と月加 ―救いの手―(2)

 保護者の一人――――紅の言葉が蘇る。
『許婚っていうのはね、親が決めた、いずれ結婚する人のことなの。月加ちゃんの場合は、私たち夫婦と、このあいだお茶会に招いて下さった本家のご当主たちが決めたことよ。相手は本家の跡継ぎの七瀬くん。簡単にだけど、ご挨拶したこと覚えてる?とてもしっかりした優しい子でね……』
 なんだそれ、と月加はまず一番初めにそう思った。
 それは許婚として七瀬を紹介される、前日のことだった。話は『月加ちゃんの許婚が決まったの』というおっとりとした声と、穏やかな微笑みから始まったのだが、そもそも許婚の意味を知らなかった月加のために、そんな親切ご丁寧な説明が補足されたのだ。
 なんだそれ、と月加はもう一度思った。
 保護者たちがとても親切で優しくて、十分すぎるほどの心配りをしてくれる人たちだということは分かっていたつもりだったが、まさか早々に将来の結婚相手まで用意してくれるとは想像もしていなかった。言葉も出なかった。感激しすぎて、では決してない。
 横で見守っている基本的に無口な夫・刀治のかわりに、紅一人が話を続けた。
『七瀬くんのほうがお兄さんだけど、きっと二人は合うと思うの。月加ちゃん、とても大人びているから』
 外見のことではなく、中身のことだということは言われずとも分かった。保護者たちは好意的に受け止めてくれているが、月加は自らを子供らしさのない、可愛げの欠片もない性格をしていると思っている。
 しかし、合うもなにも、このあいだのお茶会で草履を投げつけて怒らせて頭押さえつけられてお互いに最悪な印象を抱きましたけどね、と月加は心の中で返した。事実を言っても信じてもらえそうにない雰囲気だったので、口には出さなかった。どうやら向こうはたいそう優しい良い子らしいし、自分は自分で大人しくて内気だと思われているから。
『突然こんなことを聞かされて驚いたでしょう。実は、お茶会より前から考えていたことなの』
『はぁ』
 はぁ、しか月加は言えなかった。
 目の前の保護者が宇宙人に思えた。何を考えているんだか、話されても理解しがたい。
『身近に色々話せるお友達がいれば、いいんじゃないかと思って。月加ちゃんだけじゃなくて、七瀬くんにとっても。――――だからつまりね、学校のお友達とは違う、もっと身近なお友達ができるんだと思ってくれたらいいの。将来の結婚相手だっていうのは、今のうちから深く考える必要はないわ。もし、どちらか一方が相手をそんな風に見られないと判断したり、そもそも許婚なんて嫌だと思ったら、すぐにでもこのお話はなかったことにするつもりだから』
 だったら今すぐそうして欲しかったが、月加の口は動かなかった。
 これは本当に自分が断っても良い話なのか、すぐには判断がつかなかったのだ。自分のような何も持たない、本当の家も両親も持たない無価値な人間が、あんな大きな家の跡継ぎの将来の結婚相手として選ばれたというのは、客観的に見てすごく恵まれた、名誉なことではないのか。そんな好意を断る権限は自分にではなく相手側にしかないのではないか。
 実際この話は相手の、七瀬のためでもあると言った。ならば重点が置かれるべきは彼らの正真正銘の身内であり、本家の跡継ぎである七瀬のほうだ。赤の他人の自分ではない。
 七瀬の意思に委ねるべきだ。
 大人たちがなんと言おうと、自分は口出しする権限を持たない。
 彼と自分は、対等の立場に置かれているわけではないのだから。
 紅は話の最後にこう言った。
『でも、まずはもう一度、七瀬くんとお話してみて? このあいだは本当にご挨拶程度しか話さなかったから、人となりもよく分からなかったでしょう。明日本家で会って、ふたりがお互いに嫌だと思わなければ、許婚として仲良くしていけばいいと思うの。嫌だったら、さっきも言ったとおり、こちらからお断りすることもできるから。ね、どうかしら。会ってみてくれる?』
 すでに相手とは険悪な関係になっていますとも告げられず、月加はただ頷いた。 
 本当の選択肢は、自分のためには用意されていないと感じた。
 でも、どうせ相手は確実に断るだろうと思った。
 外面が良さそうだったから、すぐにはそうしないかもしれないが、いずれそう遠くない日に、こんな馬鹿げた話は向こうが白紙に戻してくれると、月加はそう思っていた。
 ――――それなのに、いまだ七瀬の許婚のままだ。
 別に向こうに気に入られたとか、仲良くなったから、というわけではない。
 単に、七瀬はこちらへの嫌がらせのために許婚関係を続けているに過ぎない。性格が悪いのである。手近に苛める相手が欲しいだけなのだ。誰がそれを否定しても月加には分かる。七瀬の中に自分への好感が微塵も存在していないことくらい。
 嫌な相手だ。冷たくて意地が悪くて平気で棘のある言葉を放ち、相手を傷つけることにためらいがなくて。向こうはこちらのことを『ズケズケと物を言う遠慮のない奴』だと言うけれど、そんなのはお互いさまだと月加は思う。
 そもそもこちらが気に食わないなら、放っておけばいいのだ。最初の頃みたいに無視するなり、許婚関係を止めると宣言するなり自由にすればいいのに、あの忘れもしない最悪な日曜日以降、許婚は変わった。
 無視どころか、やたらと遊びに誘ったり話しかけたりしてかまってくるようになったのだ。むろん、それはこちらが嫌がる反応を楽しむためである。
 保護者たちとは別の意味で放っておいてくれ、と月加は思う。
 でないと、たとえ気に食わない許婚の前だろうと、自分は本来ほかの人に対するのと同じように大人しく素直に振舞っていなければいけない立場なのに、つい反発してしまうから。あの嫌みったらしい口調で何か言われると悔しくて対抗したくなって、言われっ放しは我慢ならなくて、次こそは自分が言い負かして「ぎゃふん」と言わせたくなってしまうのだ。
 負けん気の強い本当の自分が顔をのぞかせてしまうのだ。
 他の誰にもこんな風にはならないのに。感情など押し込めて、いつだって冷静に対応していたのに、なぜだかあの許婚だけにはそうできない。それがまた相手に踊らされているようで悔しい。
 七瀬が冷たい顔でせせら笑うイメージが浮かび、月加はイラッとした。
 でも、イラッとしたり怒ったりしていると、他のことは何も考えずにすむ。真夜中に泣きながら目覚めてそのまま悲劇にひたることもなく、他人に優しくされればされるほど感じる孤独感にもさいなまれずにすむから、心が真っ暗闇の中に落ちていきそうなときは、月加はあの許婚の腹立たしい顔を思い浮かべて、どうやったら言い負かせるのか、どうやったら大人たちから言わせると『デート』になるらしい、その実ただの嫌がらせを上手い具合にかわせるのか、そればかりを考えることにしている。
 そして次こそは「参りました、ぎゃふん」と言わせ、すがすがしい気分で勝ち誇りたいと思う。それはきっと、許婚に向かって思うことを何のためらいもなく言うのと同じくらい、いやそれ以上に気持ちがいいだろう。
 白々と夜が明けるまで、月加はベッドに横になったまま、そんな空想で遊んでいた。
 
 * * *

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