「おはよう月加ちゃん。よく眠れた?」
毎朝、紅からはそんな風に声をかけられる。
月加は微笑みを浮かべて頷いた。
「はい。ぐっすり」
そう答えると、この人が同じように微笑み返してくれることを月加は知っている。もし悪夢にうなされてロクに眠れない、などと言ったら、即病院行きになりそうだった。
「よかった。――さぁ、それじゃあ席に着いて朝ごはんにしましょう」
おっとりとした声で告げ、飲み物を運ぶために背を向けた紅を眺める。
この人は相手の言葉を疑うということを知らないのだろうかとちょっと疑問に思いながら、月加はいつもと同じ席に座った。
四人が囲むとちょうどいい大きさのテーブルには、すでに焼きたてのパンや卵料理、サラダが並んでいた。いま庭で洗濯物を干している、有能なお手伝いさんが作ってくれたものだ。お嬢さま育ちだという紅は、お茶を淹れたり運ぶことくらいしかできないらしい。自分で堂々とそう言っていた。月加にとってはあまり驚くべきことではなく、ああそうなんだ、くらいにしか思わなかった。母親がそうだったから。
料理が大得意だった父親が、教えてくれたことがあった。
『ママは深窓のお姫さま育ちだったから、いまだに包丁の扱い方がへったくそでな。なにしろ林檎をまな板に乗っけて、両手で包丁振りかぶってドスン、だからな。パパ初めて見たとき目を疑ったね。いいか月加、お前はそんな非常識な人間になるなよ』
それを真横で聞いていた母親は、彼にパンチをおみまいしていたが、猫のように威力がないパンチだから、意地悪く笑われるばかりで悔しそうだった。
――――朝日に照らされたテーブルを見つめていると、そんな懐かしい思い出が蘇ってきて、月加は一度ぎゅっと両目をつむる。大切な、なによりも大切な思い出だけれど、今はまだ心の奥底に眠らせていたかった。
こんな場所で、保護者たちの目の前で泣くわけにはいかないから、込みあがってくる荒れ狂う感情を月加は必死に鎮めた。
そこへ、紅の夫であり、もう一人の保護者である刀治が現れた。
彼は月加の様子には気づかずに、いつものように穏やかな声で「おはよう」と言いながら向かいの席に座った。
「――おはようございます」
答えると、刀治はやさしそうな微笑みを一瞬こちらに向けてくれた。
それから彼は、紅が運んできたコーヒーをゆっくりと口にした。
この人も紅と同じくらい好意的に接してくれるが、無口なので月加相手だとすぐに会話が途切れる。それは別にかまわないのだが、この人の物静かな様を見ていると、父親との違いをいつも感じてしまう。どちらがどう悪いとか良いとかいうわけではない。ただ、全くタイプが違う人なので、逆に思い出してしまうのだ。
父親も落ち着いた雰囲気の人ではあった。
けれど、刀治のように大人しくて穏和なイメージはなかった。常に泰然と構え、臆するということがなく、いかにも悪そうな人たちに絡まれたときだって平気で普段どおりの口の悪さを発揮し、手を出されたら逆にあっさり叩きのめすような人だった。
父親は、『すらっとしてモデルさんみたいだね』と言われるような人だったのに、ものすごく喧嘩慣れしていて強かったのだ。
母親はそんな彼に対し、よく怒っていた。強いことはちゃんと知っていたのに、それでも異国の地でまったく知らない人と喧嘩するのを見るのは心臓に悪いのだと言って。
「はい、月加ちゃん」
コトン、と自分の前に置かれたアイスティーのグラスを見て、月加は我に返る。
また無意識のうちに思い出していた。
(……馬鹿だな)
思い出したって、懐かしがったって、もう二人は帰ってこないのに。
ただ悲しくなるだけだ。
とくに、こんな普遍的な朝の光景の中にまぎれているときに思い出すのはよくない。
自分の失ったものの大きさがはっきりとわかってしまって、苦しいだけだ。
「このジャムおいしいわね。月加ちゃん」
苺のジャムを乗せたパンを一口齧り、紅がにこやかに話しかけてくる。月加は「そうですね」と笑って同意した。
ひと齧り、ふた齧り。
パンはなかなか減ってくれない。
「ね、今日の夜は何が食べたい?」
紅はよくそう訊ねるけれど、作るのはお手伝いさんである。
月加はいつも少し考えたふりをしてから、「なんでもいいです」と相手がもっとも不満を抱く答えを告げる。これに関しては彼女の満足いく答えは出せなかった。食べたいものなど思いつかないからだ。
案の定、紅はがっかりした顔になった。
「遠慮しなくていいのに」
別にそんなつもりはないのだが、彼女はそうとしか思っていないらしい。月加はあいまいに笑い返しておいた。
実を言うと、月加はこの人のことが何となく苦手だった。
例によってそんなふうに感じてはならないと自分を戒めはするけれど、ときどき、こういうときにはどうしても感じてしまう。
紅は、月加の母親とは中・高おなじ学校に通っていた親友同士だったらしい。ちょうど今、月加が通っている学校である。幼稚舎から大学まである、お嬢さまばかりが集まるところ。自分とはかけ離れた、穏やかな日々しか知らない少女たちの箱庭。
良い学校よ、と紅はそう言って月加をこの学校に入れた。たしかにその通りだと月加も思う。雰囲気も、教師たちの人柄も、授業内容も、たくさんある行事も。生徒は穏やかでのんびりした子が多くて、毎日が単調に平和に過ぎていく。
紅は月加の母親とは少しタイプが違って、いかにもあの学校の卒業生らしく、ふわふわ世間知らずな雰囲気と、年に似合わぬ天真爛漫さを持っていた。
だからだろう。
月加はいつまで経ってもなじめないのだ。この人にも、学校にも。端からなじむ気がないせいもあるけれど。