七瀬と月加 ―救いの手―(4)

 * * *

 クラスメイトたちが体育で校庭に出ているあいだ、月加は隅っこで見学しているか、冷房のきいた保健室で問題集をひたすら解くことになっている。
 ときどきは月加とは違う理由で体育の授業に参加できない子がいるが、この日は誰もおらず、月加はたいていそうであるように、一人黙々と保健室のパイプ椅子に腰かけて漢字ドリルに取り組んでいた。夜まともに眠れていないので、こういうときは睡魔におそわれる。
 保健の先生はいるが、彼女は自分の机仕事をしていて時々しか話しかけてこない。月加がお喋りな人間ではないことを、すでに分かっているからだ。
 静かな部屋に、開いている窓の外から蝉の声やクラスメイトたちの声が聞こえてくる。保健室からは校庭がよく見える。
 今日は隣のクラスと合同で、ソフトボールをしていた。きゃあきゃあと盛り上がっているので、見ていない間に誰かが活躍したのだろう。両手を取り合って喜んでいる少女たちの髪が、動きにあわせて元気に揺れ動いていた。
 午後になっても強い日差しの中で、やわなお嬢さまばかりであるはずなのに、意外にもバテることなく試合に夢中になっている。
 月加はその光景のまばゆさに目を細めた。なにがそんなに楽しいのだろうと思う。その場にいて参加していない月加には分からない。ルールすらよく知らない。
 授業が終わったあと、休み時間に教室で合流すると、たいていみんな動き回ったことで興奮しながらお喋りしている。汗をかいてすっきりとした笑顔に、月加はいつも取り残されたような気分になる。
 そんな自分に気を利かせて、今日は誰々さんが活躍したのだとか、すごい記録が出たのだとか話しかけてくれる子が時々いて、そういうときは適当に相づちを打って、話を合わせている。本当は興味などないけれど、そんな素振りを見せたりはしない。
 人付き合いは当たり障りなく上手くやっていかなければならない。
 保護者にいらぬ心配をかけないために。
 それさえ叶えばいいのだ。
 たとえば休日に一緒に遊んだり、メールのやりとりをしたり――胸の内を打ち明けたりするような友人は、自分には必要ない。
 月加は漢字を書く手を止めたまま、校庭を見つめる。
 誰かが打った球が、青空に吸い込まれるように遠く高く飛んでいった。
 歓声の中、ひとりの少女が軽やかに走っていた。
 きっといま、彼女は幸せだ。
 片足がずきりと痛んだ気がした。

 * * *

 お手伝いさんが作ってくれるお弁当は、とてもおいしい。と思う。たぶん、おいしいのだろう。
 月加には味がよく分からない。何を食べてもおいしいとかまずいとか思わない。何を口に入れようが噛み砕いて飲み込むだけだ。
 母親がかばってくれて、助かった命を生かしていくために。
 以前はそうではなかった。
 ミントアイスやナッツの入ったクッキー、父親の作るスパゲッティやケチャップで動物の顔を描いてもらったオムライスなどが好きだった。
 でも、今は同じものを食べてもおいしいとは感じない。そもそも厳密には同じものではない。オムライスの上に、ケチャップでうさぎや猫の顔を描いてくれる人は、もうどこにもいないのだから。
 お弁当箱は、最初のころはクマの絵のついたものだった。
 それがけっこう大きくて、とても食べきれないほど中身が詰まっていたので、小さめにして欲しいと頼んだら、次の日からは一回り小さなうさぎのお弁当箱に変わっていた。
 でも、それでも量が多い。別に他の子のように体育で走り回るわけでもないのだから、もっと少なくてもいいのにと思いながら、月加は今日もなんとかお弁当を片付けた。
「雪城さん、いつもゆっくり食べるね」
「うん……」
 かけられた言葉に返事をして、月加は微笑んだ。
 保護者のようにおっとりした子の多い学校では、仲間はずれを作るような薄情な人間はおらず、たいして会話もしていないグループのいずれかに月加はいつもお招きされる。あっちに行きこっちに行き。
 笑い声に合わせて笑い、適当に話を合わせて。
 だれそれのお母様は料理が上手だとか、日曜日にはパパが家族みんなを遊園地に連れて行ってくれただとか、何組のなんとかさんがピアノのコンクールで優勝した話とか。
 まるで興味を持てない話ばかりだった。
 それでも彼女たちと一緒にお昼を食べ続けているのは、ちゃんと人の輪に入っているのだと大人たちを安心させるためでしかなくて、そういうあれやこれやを見透かしている許婚には、ときどき『お前は可愛げがない』と面と向かって言われるが、それは大当たりだと月加は思う。
 ふてぶてしくて、ずる賢しくて、頑固で、負けず嫌いで。
 そういう本当の自分を、楽しげに会話するクラスメイトたちも、保護者たちも、誰も知らない。微笑む心のうちを、疑おうともしない。
 ――――あの許婚のほかは、誰も。
 今ではお節介な世話係より、彼ははるかに自分のことを理解しているように思う。それが良いか悪いかは、さておき。

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