七瀬と月加 ―救いの手―(5)

 * * *

 昇降口でクラスメイトに挨拶をして別れ、空のお弁当箱の入った鞄を手に、月加は校門へ向かった。そこからバス停はすぐ目の前だ。
 最近は車ではなくバスで登下校している。
 初めは普通の車と同じように走る際の振動や音に気分が悪くなったけれど、慣れてしまえば平気だった。狭さとか、形の問題なのかもしれない。
 世話係にもう送り迎えは必要ないと伝えたら、『はい、じゃあそのように』とあっさり了承された。お節介のくせにそれ以外なにも言わなかった。
 少し前、ある日曜日に映画館の前で許嫁とケンカ別れしたとき、月加は世話係が心配して追いかけてきたのを無視して歩き続けた。何度か呼びかけられたけれど、一度も振り返らなかった。
 だというのに、どこまであの世話係は人が好いのか。
 さんざん優しくされておきながら、冷たく突っぱねた月加を見捨てまいとするように、こちらの足が弱って立ち止まるしかなくなるまでついてきた。
『お嬢さん。あそこにタクシーが停まっているから、いっしょに乗ってくれませんか。俺つかれちゃいましたよ』
 そう背中に声をかけられて、この人は自分の性格をよく分かっていると月加は思った。
 素直じゃなくて意地っ張りで、だからそんなふうに言われない限り、決して頷いたりしないことを。
 わたしのことなんかロクに知らないくせに、と声にしてぶつけたけれど、この人は、少なくとも保護者たちより、許嫁の母親より、自分に関わるどの大人より正確に理解してくれている。
 それなのに酷い態度をとったことを謝るべきだと思ったけれど、でも、なんて言って謝ればいいのか分からなかった。
 言葉に迷っていると、世話係はこちらの手をすくいとってタクシーに向かって、ゆっくりと歩き出した。
『おんぶしましょうか?』
 少しからかうような口調だった。
 それで月加はむっとして、いらない、と言った。
 いつもみたいな空気になった。
 たぶんそれも世話係の気遣いだったのだろう。能天気に見えて、どこまでも空気の読める人である。
 だけど、おかげで謝る機会を失ってしまった。向こうはこんな子供にキツイ言葉をかけられたことなどすっかり忘れているのか、とくに何も言わないし、態度もいつも通りだったが、月加はそんなふうに振舞えない。
 通学方法を変えてみたのは、自家用車よりバスのほうがマシだと思ったからだが、彼と顔を突き合わせるのが気まずいという理由も、少しは含まれている。
『お前があの世話係に言ったことは、正しいよ。お前のことはお前にしか分からないんだから。――だけど、自分で酷い態度だったと思うなら、さっさと一言謝ってしまえばいい』
 あのとき居合わせていた許婚は、自分だったら絶対に謝らないくせにそんなことを言った。
 でも、月加もそう思う。
 悪いと思うなら、謝るしかないのだと。
(……今日、家にいたら)
 この間は、心配してくれたのに突っぱねて悪かったと告げよう。
 謝るのは、お礼を言うのと同じくらい大の苦手だけれど。

 * * *

 月加は途中でバスから降りて、てくてくと歩いていた。
 すっかり忘れていたが、市立図書館に本を返しに行かなければならなかったのだ。幸いずっと持ち歩いて読んでいたので、その本は鞄の中に入ったままだ。
 本当は自分の学校の図書室で借りるつもりだったのだが、在庫がなく取り寄せると時間がかかると言われたので、かわりにそちらを利用したのである。
 その図書館は、わりと広い公園の隣に建っていた。緑が多く、月加は木陰の下を選んで歩く。平日の、まだ帰宅ラッシュには早い時間帯だからか、それとも強い日差しのせいか、公園内で見かけたのは犬の散歩をしている女性と、小さな子供連れの母親だけだった。
 図書館に入ると、その涼しさにホッと息をつく。
 月加はカウンターで本を返却すると、次のバスが来る時刻が近づくまで、窓際の椅子に座って雑誌をめくりながら過ごした。
 それから数十分後、建物を出て、再びバス停に戻ろうとしたときだった。
 月加は一人の男が木陰からこちらを見つめていることに気がついた。
「……?」
 くたびれた感じのTシャツを着て、ジーンズを履いている。目深に帽子をかぶっていて顔は分からないが、全体の雰囲気から三十代くらいに見えた。
 周りには他に人がいない。図書館の中にはそこそこの利用者がいたけれど、まるで別世界のようにこちらは閑散としている。犬をつれた女性も、子供連れの母親も、もうどこにも見当たらなかった。
(あれはヤバイ)
 ほぼ直感でそう思い、月加はできる限りの早足でバス停を目指した。
 ちらりと後ろを振り返ると、男がこちらを追うように歩き出したのが見えて、ますます警戒する。
 しかも、相手もきょろきょろと辺りを警戒するような動きをした。どうにも怪しい。
 バス停のある歩道まで出てみても、向かいの歩道に二人連れが歩いているだけで、他に人の姿はなかった。今日は暑いから、いつにも増して人けがないのかもしれない。みんな建物の中で涼んでいるのだろう。
 さすがに車は何台か通り抜けていくが、停まるものはいない。
 舌打ちしたくなった。
 ただの自意識過剰ではなく、あれが変質者で間違いないなら、走れない自分はかっこうの標的である。早歩きしかできないなんて、捕まえてくれと言っているようなものだ。
 腕時計を見ると、バスが来るまであと数分あった。早めに建物を出すぎてしまったようだ。もう一度図書館の中に逃げ込もうにも、そちら側から男が向かってきているので、引き返せない。
「――ねぇ、きみ」
 月加は勘が良い。
 声色ひとつで、やはりそうかと確信した。
 変質者に狙われるのは初めてではなかった。一人で本屋にいるときに、怪しげな人間にお尻を触られそうになったことがある。気づいて距離を置いたが、何度も何度も接近してくるのだ。それもズボンの前を開けたまま。逃げるみたいでしゃくだったが、目当ての本もろくに見ずに店内を後にした。月加はそのことを誰にも言わなかった。
 学校から一人で歩いて帰ろうと試みたときには、途中で一見まともそうなサラリーマンに声をかけられた。『ちょっとオジサンと良いところに行かない?おこづかいあげるよ』とか何とか。気色わる、と思って、あのときは相手を無視して通り過ぎた。そうしたら追いかけてこようとしたのだが、ちょうど主婦の集団が通りかかってくれたので助かった。これもまた、誰にも言わなかった。
 どうも自分はヘンな人間をひっかけてしまうようなのだ。特徴といえば色素の薄い容姿くらいで、それほど目立つとも思えないのに。
 だから、だいたいの原因は、このお嬢さま校の制服にあるのではないかと月加は推測していた。あの学校は基本的に寄り道を禁止しているので、自分のように放課後に一人でうろつく生徒はほとんどいない。それゆえ希少生物みたいに目立っているのかもしれなかった。
 まぁ、今そんな原因に思い至っても仕方ないのだが。

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