七瀬と月加 ―救いの手―(7)

「秋河、岬」
 彼が呼びかけると、二人の少年は不思議そうな顔をした。
「どした?」
月加の傍にいる少年は、その問いに落ち着き払った声で言った。
「俺はこの子を送っていくから、後は任せていいかな」
「え?」
「は?」
 言うが早いか、月加は彼に腕をとられていた。足が弱っていたので、こんな風にしっかりと支えてもらうのは助かった。そうでなければ座り込んでいただろう。
 驚いている二人の友人に、彼はさらに言う。
「警察には適当に話しておいてくれ」
「被害者抜きで? ……つか、知り合いなの? その子」
 そう首をかしげながら訊いたのは、茶色の髪の少年だった。
 七瀬は一瞬沈黙したあと、きっぱりはっきりこう言った。
「赤の他人」
「……赤の他人、ねぇ。それでなんで、他人に無関心なあんたが親切に送ってやるわけ? 警察に任せずに」
 七瀬の同級生らしい少年達は不可解そうな顔をした。
 無理もない、と月加は思う。
 腹をくくって、この場に留まるべきだろうか。
 被害者として事の次第を話すのは別にかまわないけれど、警察から保護者に連絡がいってしまうのは避けたかったのだが。 
 許嫁がそんな自分の気持ちを察して、この場から連れ出そうとしてくれたのは意外だった。
 でも、いらぬ迷惑をこれ以上かけるわけにもいかない。
「あの……わたし」
 残る、と告げようとしたら。
「面倒ごとは避けたいんだ。コレも、俺も。協力してくれ」
 と、月加のことを赤の他人だと言ったくせに、七瀬はそんな風に言った。
 彼らは驚いたような、意外なものでも見るような顔をして、七瀬とその手に支えられている月加を見た。
 そんな二人の返事を聞く前に、七瀬は背を向けて歩き出した。月加も腕を引かれる形でついていく。歩調は緩やかだった。
 引き止める声はなかった。
 そのかわり、どちらかが「仕方ないなぁ。気をつけてな」と言ったので、月加は顔を少し後ろに向けて、わずかにお辞儀した。

 * * *

「おまえ、案外マヌケだな」
「……ほっといて」
 ふてくされて、月加はそっぽを向いた。
 窓の外には流れる街の景色がある。
 先ほどの少年二人のうち、片方の家に遊びに行くつもりだったという七瀬は、その途中で思わぬお荷物を回収してしまったため、予定変更してすぐに電話で迎えを頼み、こうしてそのお荷物と車に乗っている。
 月加は窓の外を見ながら、痛む足に眉根を寄せた。
 それに気づいたのか、七瀬が言う。
「病院には」
「行かない」
 どうということはない。
 この程度なら、大丈夫だ。そのうち痛みは引いていく。病院に行くほどではない。できることなら近づきたくない場所だ。
 何もかも失って、たった一人で目覚めた、最悪の記憶を思い起こさせるから。
 月加は一度きゅっと唇を引き結んだ。
 それから、ためらいがちに口を開いてお礼を言おうとした。
 この許婚は、あのとき自分の目の前に立っていた。
 ちょうど、男の拳が落ちてくるはずだった場所に。
 明日はきっと雨が降る。
 いや、大嵐かもしれない。
「あの、……さっきは……」
 お礼を言うのは苦手だ。
 相手がこの許婚なら、なおのこと。
「お前、もしかして礼を言おうと思ってる?」
「……だったら何」
 とてもお礼を言う人間の態度ではなかったが、月加はなんだか気恥ずかしくて、いつもよりも仏頂面になった。
「あの変質者からお前を守ったのは、さっきの二人だ。俺じゃない」
「……じゃあ、その二人に言っておいて」
 ちらっ、と窓ガラス越しに許婚のほうを見たら、彼は自分と同じように窓の外を見つめていた。日頃あんなに自分をからかって、こういうときにはお礼の三つや四つ言わせてこちらを悔しがらせるような人間のくせに、本物の感謝は受け付けないなんてヘンな人だ。こういうのを、天邪鬼というのだろうか。
 月加は再び窓の外の景色に視線を戻した。

 * * * 

 たしかに自分の方を見たはずの許嫁は、どう見ても非常事態にみまわれているにも関わらず、たった一言を告げようとしなかった。
(馬鹿が)
 どうして言えないのか。
 本当に無駄な矜持を持っている。
 たった一言叫べばよかったのだ。
 助けて、と。
 そう言いさえすれば、求めさえすれば動いてやったのに。あんな寸前ではなく、薄汚い変態に腕を掴まれる前に。
 友人二人は単に反応が遅れただけだが、七瀬は違った。
 すぐにも助ける準備はあった。
 しかし、どうしようもない意地っ張りが何も言わないものを、自分から進んで助けてやる必要はない。そう思って、わずかのあいだ傍観していたが、無性に腹が立っていた。
 なぜ言わないのか分からない。
 まともに走れもしない足しか持たず、抵抗といえば腕に噛みつくくらいで(その前にどうやら相手を殴ったらしいが)、どう考えても抵抗しきれるはずもないのに、この愚かな自分の許嫁はすぐ傍にいる人間に助けを求めることもなく、じたばた足掻くばかりで。
 ――――結局、一番先に動いたのは友人二人のうちのどちらでもなく、七瀬だった。
 小さい身体の前に飛び出して、かわりに拳を受けるつもりだった。
 しかし、友人たちが男に飛びついてくれたおかげで、明らかに何かあったと分かるような怪我をせずにすんだ。
 といっても、自分は別に怪我をしても構わなかったのだ。そんなものいずれ治るし、大人たちは理由を聞きたがるだろうが、どうとでも適当にごまかせるのだから。
 ただ、そうは思わない人間がいる。この面倒くさい許嫁だ。おそらく、怪我をしていたら当人の自分より気に病んだだろう。そんな必要はどこにもないというのに。
 だから、一応友人たちには感謝している。
 許嫁はふてぶてしくて可愛げのない人間だが、その一方で繊細な部分を持ち合わせていて、表面上そうは見えずとも自分が原因で他人が怪我を負ったら、確実に思い悩むような人間なのだ。たとえそれが、気に食わない相手でも。七瀬はそれをもう知っている。
「お前、怪我は」
 一応そう訊いてやったら、彼女は首を横に振った。
 この許嫁は他人に怪我を負わせることも嫌がるが、自分自身も目に見える傷をつくらないように気をつけている。保護者たちにいらぬ心配をかけたくないのだろう。七瀬が警察が来る前に月加をあの場から離したのは、そのことを知っていたからだ。
 口で言われたわけではないが、目が合った瞬間、七瀬には自分の許嫁が何を心配しているのかが分かった。
 自分にしてはまったく親切なことだと思いながら、あの場から連れ出してやったが、それはただの気まぐれであって、感謝を受けたいがためではない。礼など必要ない。
 だから許嫁がためらいがちに何を言おうとしたのかが分かって、七瀬は先回りして言葉を紡ぎ、それを拒否した。
 運転手が、互いにそっぽを向いてのやり取りに笑っているのがミラー越しに見えた。彼には一応、何があったか伝えてある。口が堅いので、小うるさい親たちには黙っていてくれるはずだ。それはいいが、何がおかしいのだ、と七瀬は流れる景色に視線を戻しながら思った。

 * * *

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