七瀬と月加 ―救いの手―(8)

 その夜、月加はいつものように悪夢を見た。
 車の中。
 楽しげな両親。
 似たような会話。
 真っ暗闇。
 やがて起きることがもう分かっていて、月加は耳を塞いで小さく蹲る。
 けれど、今日の夢はいつもとは少し違っていた。
 耳を塞いでいるのに、数人の小さな話し声が聞こえてきて。
 思わず顔を上げると、傍にはもう両親の姿はなくて、車にも乗っていなかった。ただ闇を塗りこめた空間が広がっていて、そのはるか彼方に小さな光が見えた。
 目を凝らすと、その光の中で笑いあう人々の影がある。
 ――――そちらに近づきたい。
 月加は闇の中をもがきながら歩こうとした。
 けれども、一向に光のほうへは近づけない。
 次第に息が苦しくなってくる。
 闇に身体が埋もれて身動きがまったくとれなくなってくる。
 ふと振り返ると、背後から真っ黒な闇が押し寄せてきていた。
 怖かった。
 泣きたくなった。
 それでも、月加は誰にも助けを求めなかった。
 求められなかった。
 なぜなら、あの日、全身が凍りつく恐ろしいことが起きた日、月加は叫んだのだ。足が動かなくて、身動きも取れない状況だったから、そうすることしかできずに。
必死に、声が枯れてもなお叫び続けた。
 たすけて――――と。
 誰にともなく叫んだ。
 神さまにも祈った。
 けれど、結果はどうだ。
 意識を失って、次に目が覚めたときの絶望感を、月加は今でも覚えている。
 白い病室の中で涙を流しながら、失ったふたつの温もりのことを思った。もう聞けない笑い声のことを思った。
 やさしい子守歌は、永遠に失われてしまった。
 どんなに救いを求めても、それが叶わないことを月加は知った。
 だからもう、二度と、誰にも助けてなんて叫ばない。

 * * *

 雨が降っている。
 それも土砂降りだ。
 月加はじっと空を見上げながら、昇降口で立ち尽くした。
 その手に傘はない。降るなんて知らなかった。夕べも朝も天気予報は見なかった。基本的に、時々しか見ない。というかテレビ自体あまり見ない。
 広々としたリビングにふさわしい大きなテレビは、主に保護者たちがニュースや映画を観るのに使われているが、月加はその中に混ざらないようにしている。『一緒に観よう』とよく誘われるが、ソファに座ってじっと三人で同じテレビを見つめて、笑ったり泣いたり怒ったりしたいとは思わなくて、いつも何かと理由をつけては断っている。たとえば宿題がまだ済んでいないとか、もっともらしい嘘をつき。
(この嘘つき)
 月加は口の端をゆがめて自分をあざける。
 雨は止む気配がない。
 空は暗黒の雲で覆われていて、時おり雷まで鳴っている。校庭の土は水溜りで見るからにぬかるんでいた。
 激しい雨音で、きゃあきゃあと騒ぐ同級生たちの声すらかき消される。傘を持っているものは、雷に身をすくませながら帰って行く。そのカラフルな傘の群れを見送っていると、どこか遠くのほうで空が光った。きゃあ、と再び誰のものとも知れぬ悲鳴。
 学校の駐車場に迎えが来ているものたちは、「あっちから出よう」と別の出入り口を目指して靴を片手に廊下に逆戻りしていった。月加は靴を履いたまま、何もせずに同じ場所にずっと佇んでいる。そんな人間は他にいない。
「あ、ママ? いま終わったところ。迎えに来てくれる?」
 誰かが携帯電話でそう話すのが聞こえた。
 気がつけば、そんなふうに家人の誰かに迎えに来てくれるよう連絡をとっているものが数人いた。
 友人の傘に入れてもらって仲良く歩いて帰っていくものや、中にはどこまで行くのか知らないが、傘もなく走り去っていく人もいて、おしとやかな少女が多い学校にあっては、とても珍しい光景だった。その人はバス停を目指していたのかもしれない。昇降口からは見えないが、バス停は校門のすぐそばにあって、屋根つきだから。そこまで行ってバスの到着を待つことにしたのかもしれない。
 月加も乗り遅れないためには本当はそうしたほうがいいのだが、走れない自分ではバケツの水でもかぶったような濡れ方になるだろうし、止めておいた。
 教室や図書室で雨が止むのを待つという手もあるけれど、月加はそうすることもしなかった。ただどうしようかと思いながら、空を眺めて立っていた。
 生ぬるい風がふわりと頬をくすぐる。
「――――雪城さん」
 名を呼ばれた。

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