七瀬と月加 ―救いの手―(9)

 聞き覚えのない落ち着いた声に振り向けば、一人の少女がこちらを見ていた。
 肩上で切り揃えられた黒髪が、さらさらと風になびいている。胸元のリボンの色が同じなので、月加は同級生なのだと判断する。
 けれど、相手に見覚えはなかった。
「折りたたみでよければ、わたしの使う?」
 さて彼女はいったい何組の何さんなのだろうかと、月加は差し出された水玉の折りたたみ傘を見下ろしながら考える。
 今まで同じクラスになったことがあっただろうか。あまり人の顔を覚えるのは得意ではないが、まさか現在のクラスメイトではないだろう。もうすぐ夏休みに入るので、さすがに名前と顔の一致しない人間はいなくなっている。
 月加は瞬時に脳内を検索するが、やはり知らない相手だった。
 その疑問が、受け取りもせずに傘を見下ろす視線に出ていたのだろう。相手はこちらを安心させるようなやわらかな微笑を浮かべた。
「隣のクラスの山村です」
 そう名乗られてもピンとこない。
 相手が自分を知っているのが不思議だった。
「どうしてわたしに?」
 訊いてみると、彼女は微笑んだまま言った。
「困っているように見えたから」
 恩を着せる風でもなく、それはごく自然な口調だった。
「返すのはいつでもいいよ」
 そう言われても、月加は受け取る気になれなかった。
 かわりに訊いた。
「あなたはどうするの?」
 そうしたら、彼女は朗らかに笑って言った。
「母がもうすぐ迎えに来るの。傘があるからいいって言ったんだけど。だから、これは必要ないのよ。遠慮せず使って」
 胸に何かが突き刺さる。
 月加は微笑んだ。
 どうしようもない孤独が襲う。
 でも泣きたくはない。
「ありがとう。でも、わたしも迎えを待っているだけだから」
(大嘘つき)
 誰も来ない。
 迎えに来てくれるような人は、自分には一人もいないのに。
「そうだったの? ごめんなさい、余計なお世話だったわね」
 謝る必要はない。
 月加は首を横に振った。
 ごく普通のことを言われて勝手に傷ついているほうが悪いのだ。意地を張って、くだらない見栄を張った自分の方が悪いのだ。
「それじゃ、またね雪城さん」
 結局、なぜ彼女が自分を知っていたのか分からぬままに、月加は心にもないことを言った。
「声をかけてくれてありがとう」
 彼女は微笑んで去って行った。
 そして、誰もいなくなった。
 昇降口で佇んでいるのは自分だけだ。
 雨が地面に打ちつけられては跳ねる様をじっと見つめながら、月加は来るはずのないものを待ち続ける。
 やがて立ちっぱなしの足が疲れてきて、その場にしゃがみ込んだ。
 耳を打つ雨音がうるさい。他には何も聞こえない。
 ――――それから、しばらく経った頃だった。
 バシャッ、と大きな水音がして、月加はゆっくりと顔を上げた。
 黒い傘が視界に入った。
 その下で優しく微笑む顔に、月加の胸は、なぜだか締めつけられる。
 頼みもしないのに迎えに来た、お節介でお人好しな世話係は言った。  
「お待たせしてすみません、お嬢さん」
「……頼んでない」
 昨日は家で会わなかったから、次に会った時こそ例の日曜日のことを謝ろうと思っていたのに、月加の口からはまた可愛げのない言葉しか出てこなかった。どうも素直に謝るということができない。
 でも、言わなければ。そうしなければ、もう二度とこの世話係と普通に話せなくなる。
 どうしてか、それがとても惜しく思えて、月加はもう一度口を開いた。
「あの……この前……」
「はい?」
「日曜日、映画に行った日…………あの…………」
「はい」
「…………ご」
「ご?」
「ごめ」
「…………」
 ごめんなさい、の一言がこんなにも重いとは思わなかった。
 両親は自分に甘くて、本気で叱られたことなんてなかった。保護者たちはそれ以上に甘くて、何も言わない。
 だから、慣れていない。
 慣れていないけれど、言わなくてもいい理由にはならない。
「ごめん、なさい…………」
 しゃがみ込んだまま、顔も見ずに、それでも何とかそう言った。
「えっと、お嬢さん」
「……なに」
 許さないとか言う気だろうか。でも、迎えに来ておいて? ――――いや、仕事だから来ただけであって、別に許しているから来たわけではないだろう。
 じゃあやっぱり、許さないと言われるに違いない。
 そんな後ろ向きなことを思っていた月加の耳に届いたのは、予想外の言葉だった。
「すみません、雨の音がひどくて、よく聞こえなかったんですが」
「…………」
「もう一回言ってもらえませんか」
「言わない」
「え、そんなこと言わず」
「二度と言わない」
「ケチだなぁ」
 誰がケチだ、聞き逃したそっちが悪い、と月加がむっとして顔を上げたら、世話係はニマニマ笑っていた。…………絶対に、ちゃんと聞こえていたのだ。イイ性格をしているものである。
 月加は仏頂面で頬を赤くしながら、立ち上がろうとした。
 けれど、足が痛んでふらつく。
「あ」
「――――マヌケ」
 後ろから、そんな言葉と共に腕を支えられた。
 世話係ではない。彼は自分の正面にいて、ホッと息をついている。
 振り返って見上げると、冷ややかな眼が自分を見下ろしていた。
 世話係はともかく、なんでこの人までいるのか分からない。
 訝しげに見ると、許婚は支えていた手を離して、先に昇降口前の短い階段を降りた。傘を差し、そのまま駐車場の方へと向かう。
「…………なんであの人がいるの」
 無言で遠ざかる背中にではなく、目の前にいる世話係に問えば、彼は可笑しそうに話した。
「お嬢さんが心配だったから、迎えに来てくださったんじゃないですかね。俺が来たときには、もう本家の車があって。お嬢さん気づいてませんでしたけど、若様、さっきからそこに立ってましたよ」
「は……?」 
 世話係は「そこに」と昇降口の右側を指す。昇降口前には左右に屋根つきの通路がついていて、どうやら許婚はその通路に立っていたらしい。
「どう声をかけようか迷っているように見えましたけど」
 そんな繊細な人間か、あれが。
 月加はそう思った。
 そもそも、心配して迎えに来たとかいうこと自体が信じられない。ありえない。今まで、雨が降ったからといって迎えに来たことなんかないのに。
「お嬢さん、俺に他にも言うことあるんじゃないですか」
「……謝ること?」
 たしかに他にも謝ったほうがいいかもしれない、というような態度をとっていた覚えはあるが。
 けれど、世話係は「そうじゃなくて」と真面目な顔をして言った。
「聞きましたよ、昨日。本家の運転手の立原さんから。変質者に襲われたって」
「紅さんたちに――」
「言ってません。知っているのは立原さんと俺くらいです。お嬢さんが言うなっていうなら、これからも紅さんたちには言いません」
「雇い主に内緒にできるの?」
「喋って欲しいんですか?」
 月加は首を横に振った。
 世話係がため息を吐く。
「お願いですから、俺にはそういう大事なことはちゃんと言ってください。守ろうにも守れないでしょう。てわけで、車嫌いは知ってますけど、しばらくバス禁止です。あと、一人での寄り道も」
「勝手に決めないでよ」
「決めます。今回は譲れません。若様だって心配なさってるんだから」
 だからそれは勘違いだ、と月加は思った。
 あの許婚が、自分を心配するなんてことは一生ない。そんな気遣いをするような関係ではないのだから。
 その疑いが顔にあらわれていたのだろう、世話係は言った。
「ホントですって。今日だって、昨日のことがあったから、俺がいるっていうのにわざわざ立ち寄って下さったんだと思いますよ」
「…………ただの暇つぶしでしょ」
「そら変わった暇つぶしですねぇ」
 世話係は、許婚の好意を(はたして本当にそんなものが存在するのかどうかは謎だが)頑なに信じようとしない月加に呆れ混じりに言って、手を差し出してきた。
「はい、帰りますよ、お嬢さん」
「……」
 お節介の、お人好しの、ただの世話係のクセになんだか偉そうに言われた。月加は口をへの字に曲げて、しばらくじっとその手のひらを見つめていたが、やがて躊躇いがちにそこに自分の手を置いた。
「足元気をつけて」
「……言われなくても、気をつけてる」
「それは失礼しました」
 可愛げのない言葉に気分を害するわけでもなく、むしろ可笑しそうに返して、たいそう物好きな世話係は月加が階段を降りるのを手伝った。  
 そうして、繋がった手は車の前に着くまで離されることはなかった。

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