七瀬と月加 ―彼の子守歌―(1)

 なにかがあったわけではない。
 毎日は淡々と過ぎていた。
 でも、だけど。


 月加ちゃんが帰って来ないの、という電話を受けた七瀬が、真っ先に思ったことは『だからどうした』だった。
 許嫁の保護者である紅が、心配そうな声で続ける。
『七瀬くん、何か知らない?』
「さぁ。昨日遊びに来たときは普通にしていましたけど」
『今朝もよ。学校にも連絡したけど、いつも通りに帰ったそうなの。寄り道しているにしては遅すぎるし、そもそも連絡もなくいなくなったことなんてなかったのに』
「警察には」
『まだよ。今、夫と楓くんが捜しに出ていて……このまま見つからなかったら、連絡しないと……。七瀬くん、もし月加ちゃんから連絡があったら教えてね。わたしは家で待機しているから……』
「分かりました」
 それから二言三言話してから、七瀬は受話器を置いた。窓の外を見る。すでに日は落ちて、辺りは真っ暗だ。
 夕飯は済ませているし、今夜はさっさと風呂に入って、自室で読書でもしようと思った。


 * * *


 風呂から上がり、髪を乾かそうとした時だった。
 使用人が『紅さんから、お電話です』と言って子機を持って来た。見つかったという知らせならよいが、そうでなければあのチビ泣かす、と思いながら電話に出る。
「もしもし、七瀬ですが」
『七瀬くん、月加ちゃんからは……』
「連絡はありません」
 答え、七瀬は眉間にシワを寄せた。
 湯冷めして風邪を引いたら、どう責任をとってもらおうか。
 通話を終えた七瀬はタオルで軽く髪を拭くと、それを放り投げて玄関へと向かった。


 * * *


 いつかそのうち、こんな日が来るのではないかという気はしていた。
 七瀬は街灯に照らされた薄暗い夜道を歩きながら、そう思った。
 あれはいつも、どこにいても周りに溶け込んでおらず、一人ぽつんと浮いていたから。今にも消えそうなほど、喪失感に満ちた淋しい眼をして。
 そうでないときは、自分と喧嘩しているときだけだ。勇ましい強気な態度で、生意気な眼をして睨んでくる。それと向かい合っているとき、七瀬は『ちゃんと生きているな』と不思議なことを思う。
 この許嫁は、人並みに感情的にもなれるし、本音も晒せている。同じ態度でいるこちらに、ちゃんと応えるかのように。
 いつも誰といるときでも、そんなふうに思うままに振る舞えばよかったのだ。自分がそう変わったように、あの許嫁もまた。
 けれど彼女と自分とでは置かれている立場が違うから、そうしたくてもできないのだということも、理解してはいる。
 それでも、少しは胸の内を晒すべきだったのだ。保護者である紅や刀治はとても親身に世話をしているし、何を言おうとちゃんと聞いて、受け入れてくれたのではないか。
(だから馬鹿だと)
 自分を偽り、開かぬ胸の中に渦巻く言葉を押さえ込んで、そしてとうとう我慢できなくなって消えたのだ。七瀬は自分もそうだったから、よく理解できる。
 なぜ家に帰ってこないのか、その心情も手にとるように分かる。
 いつだったか紅の言っていた通りになったのはしゃくだが、――――不本意ながら認めると、あの許嫁のことを一番理解しているのは、紅でも刀治でも世話係でもない、この自分なのだ。

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