七瀬と月加 ―彼の子守歌―(3)

 帰らなければならない。
 そう思うのに、月加の足は動かない。
(だってどこに)
 帰る場所などないのに、一体どこに。
 やがて空が赤く染まって、夜の闇がやってくる。
 暗いのは嫌いだから、早く動かなければいけないのに、そう思っても座り込んだ場所から一歩も動けない。月加は両膝を立てて、顔を伏せた。背を丸めて縮こまる。身を守るように小さく蹲る。

 * * *

 食事は居間でいっしょに食べること。
 それが許婚の家に移るための、唯一の条件だった。
 なぜ許婚の祖父はそんなことを条件にしたのだろう。
 月加は、できれば別の条件にしてほしかったと思う。
 だって自分は、あのやさしい保護者たちと同じ食卓を囲むことにすら抵抗を感じていたのだ。本来いるはずのない場所に、他人の家庭に、見知らぬ家族の中にうっかり紛れ込んでしまった、そんな落ち着かない心地がして。
 そしてそれは、気のせいでもなんでもなくて事実だから、どうすることもできなかった。毎日どうして自分はここにいるのだろうと思いながら、同じ食卓を囲む人たちに違和感を感じながら、それでも話しかけられれば笑顔をつくり、楽しそうに言葉を発しなければならなかった。誰かにそうしろと言われたわけではない。月加が決めた、月加のルールだ。   
 赤の他人の世話をしてくれている人たちに、ほんとうは楽しいはずの話を聞いても全然楽しいと感じないとか、くれる笑顔に同じように返せばいいだけなのに、たったそれだけの笑顔をつくるのも苦痛だとか、そんなことを言えるはずもなかった。
 ――――ここにいるのはいったい誰だ。
 月加はときどき明らかに偽物の笑顔を浮かべて保護者とお喋りしている自分自身を、ぼんやり宙に浮かんで見下ろしているような奇妙な気持ちがしていた。
 それでとうとう混乱して家に戻らず、近くの教会の敷地内にいたところを許婚に捕獲され。
 どこにいたらいいのかわからない、居場所がない、わたしの家族がいない、わたしの家がない、笑いたくない、かなしいのに笑っていたくない、さみしいのに楽しそうにしていたくない、そんなようなことを許婚に言い連ねて、そうしたって何も変わらないということは分かっていたけれど言葉は喉を貫いて、泣いてどうなると思いながら泣き喚いて、それで結局、結局のところ―――――月加はひどく疲れて、意識があいまいになった。
 気がつけば、初対面の時からこちらになど好印象の欠片も持っていないという雰囲気だった許婚に背負われていた。
 三つ年上の許婚は、自分を背負ってもまるで重さなど感じていないような、しっかりとした足どりだった。
 その髪から良い香りがしたので、お風呂に入ったばかりなの、と泣いて掠れた声で訊けば、お前のせいで湯冷めしたと答えが返ってきて、見つけてなんて頼んでないと思ったけれどそれは言わなかった。謝りもしなかった。
 街灯のあまりない暗い道を、保護者の家とは別の方向へと歩いていく許婚の背で、このままゴミ捨て場にでも放り投げてくれればいいよと月加は思った。
 でもすぐに、闇に似た色を思い出した。
 そうだった、自分はたとえ一人ぼっちが嫌でも死んではいけないんだった、だから生きていくためにどこかの家に住まわせてもらわなくてはならないのだと。
 周りの人たちが良くしてくれる、それを居心地悪く感じるというのはとてもぜいたくなことだ。我慢すればなんとでも―――いや、我慢は間違っている。それは相手に失礼だ。
 とにかく自分はただ、また笑って何事もないふりをして、日々に溶け込んでいるように見せかけなくてはならない。それが残された自分のやるべきことだ。月加は強くまぶたを閉じて、自分自身に言い聞かせた。
 許婚の背中は、まだ大人のそれと違って線が細くて、でも自分と比べるとじゅうぶん大きくて広く感じた。
 子守歌を歌って、とねだってみた。
 あとから思い返せば、まったくどうかしていたと月加は思う。
 でもその時は、どうしても聞きたかったのだ。
 もう全く同じものは聞けないのだとしても。
 自分を背負ってくれている人に、歌ってほしかったのだ。
 そうしたら、前と同じようにぐっすりと眠れる気がした。
 怖い夢などひと欠けらも見ないで、泣き叫んで気が狂いそうな現実が追って来られないほど――――深く、深く。
 ねだっておきながら、絶対に歌ってなどくれないと思ったのに、やがて夜道に静かに歌声が流れた。
 その歌は、月加が白玉の前で歌っていたものだった。
 子守歌として、父親に歌ってもらっていた外国語の歌だった。
 許婚の背中で、月加は涙を流した。
 それは父親の歌声とはまったく違っていたけれど。
 彼の子守歌は、意外なほどやさしく月加を包み込んだ。
 まるで怖い夢から守ってくれるように。

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