廊下に突っ立って、少し先にある部屋から聞こえてくる話し声に耳を澄ました。
ろくに話したこともなかった人たちと、今日から毎日いっしょに食事をしなければならないことは、かなり面倒で嫌なことだった。苦痛と言ってもいい。
それでもあのまま保護者の家にい続けるよりはマシだった。そんな考え方をするのは失礼だと分かっているが、それもまたやはり事実なのだ。
月加はため息を吐く。
気が進まない。また保護者たちの時のように、他人の家庭に紛れ込んでしまった居心地の悪さを感じながら、何を食べているんだか味も分からないような食事をしなければならないとは。
他人の家に居候しているのだから仕方ないし、食べさせてもらえるだけありがたいのだときちんと分かってはいるけれど。それでも抵抗はある。
そしてその抵抗によって、月加はあと数歩を踏み出せないでいた。と、その時。
「邪魔」
背後から、冷たい無感情な声が降ってきた。
振り返らずとも分かる。
自分の許婚だ。
月加はどんな反応を返せばいいのかわからずに、ただ俯いて、大人しく廊下の壁際に寄った。そうしたらすぐにでも通り過ぎるだろうと思っていたのに、けれども許婚は月加の頭をぐしゃりとかき回した。「っ」
「なに……」
「お前は案外馬鹿なのかな」
許婚は月加の頭に手を置いたまま、感情の読めない眼で見下ろしてきた。口元だけは微笑みの形をつくっている。
「ここは誰の家だ?」
「……あなたの家」
何を分かりきったことを、と月加は胡乱げに許婚を見上げる。
彼は続けた。
「俺はお前の何」
「……いいなずけ」
「お前はどうして俺の家にいるの」
「――――それは」
それは、この目の前の許婚自身がよく知っていることではないか。
月加は夕べのことを思い出した。
教会の敷地内で捕獲後、許婚は月加を保護者の家ではなく自宅に連れてきて、まず保護者に『人騒がせが見つかった』と連絡を入れた。
それからやって来た保護者たちと自分の家族に、『この子、うちの離れに置いてやっても構いませんか』といきなり切り出したのだ。大人たちもだが、月加当人も初耳だったので驚いた。
『あなたはどうしたい?』
保護者たちは優しい口調で月加に意思の確認をした。
いたいところにいていいんだよ、と付け加えられたけれど、月加にはいたいところなんてなかった。
ただ息が。
無理をしなくても息ができる場所がほしかった。ただ、それだけだった。
そして、それはもしかするとこの許嫁の傍で叶うのではないかと、ほんの少しあの歌声を思い出して感じたのだ。
朝の陽射しが足元に近づく。
月加は一度きゅっと唇を噛んでから、口を開いて許婚の問いに答えた。
「ここにいたいって自分で言ったから、ここにいる」
自分で選んだことだ。
だから、たった一つの条件くらいクリアしなければいけない。
そう思いながら言ったのに。
許婚はもう一度、馬鹿だな、と言った。
「お前がここにいるのは、俺がいるからだ」
意味が分からなくて、月加は訝しげに許婚を見上げ――――少し、驚いた。
「お前は俺の許嫁なんだろう。なら、俺のとなりがお前の居場所になる。たったそれだけのことだ。ごちゃごちゃごちゃごちゃと朝っぱらから考え込む必要なんかどこにもない。今度悩んだら、『七瀬がいるからわたしはここにいるんだ』と、それですませておけばいい」
こんがらがった糸を容易くほどくように言って、許婚は月加の肩を押して歩き出した。
斜め上からため息が聞こえる。
「お前のせいで朝食に遅れた」
でも、そういうわりに、その声は怒っていなかった。
無感情で冷たく響く、いつもの声とも違った。
夕べもそうだった。
気のせいかもしれないけれど、初めて聞く、やさしい声をしていた。
だから月加は一瞬言葉に詰まった。
でも、真夜中に見つけてくれたこと、子守歌のこと、考え込まなくていい居場所を与えてくれたこと、それらに見合う言葉を紡がなければならないと思った。
居間まで数歩の距離。
朝陽が照らす中で、月加は自分の許婚の服を掴んで立ち止まり、じっと見下ろしてくる彼にこう伝えた。
「……ありがとう……七瀬」