たわむれ

「俺もたまには違う呼び方をしようかな」
 許婚が唐突にそう言った。
 本を読んでいた月加は、怪訝に思って顔を上げる。
「いきなりなんの話ですか」
「お前の名前のことだよ」
「? 呼び捨てでかまいませんが」
「いつも同じじゃつまらないだろう? お前は俺のことを呼び捨てにしたり『さん』づけにしたり、コロコロ変えているから、お返しに違う呼び方をしてあげようと思ってね」
 どうしてこの人は、頭が良いくせに時々こういうどうでもいい妙なことを思いつくのだろう。月加は呆れまじりの視線を向けて言った。
「別に変えてくれなくて結構です」
「まぁそういわず。月加ちゃん」
「………………」
 鳥肌が立った。
 月加は本をテーブルの上に置いて、腕をさする。
「気持ち悪い」
「おまえは本当に失礼な子だね。月ちゃん」
「…………『ちゃん』から離れてもらえませんか」
 ぞわぞわっ、と月加は本気で悪寒を感じた。
「ならこうしよう。――ハニー」
「…………」
「こら、本なんて人に投げるものじゃないよ。角が当たったら痛いだろう」
 身体を横にずらして見事に避けた許婚は、顔色一つ変えずに言った。
「うるさい! ふざけたことばかり言ってると、今度は辞書投げるわよ!」
「やれやれ、乱暴な子だな」
 ふう、とわざとらしくため息をついて、許婚は続ける。
「俺はただ、お前のその嫌がる顔が見たかっただけなのに」
「……このド変人。辞書持ってくるから、そこで待ってて下さい」
 月加は居間から出て、自分の部屋へ向かった。
 それから、本当に辞書片手に戻って来たのだが、すでに許婚は姿を消していて。
 月加は眉間にしわを寄せ、辞書片手に家の中をうろうろした。
 なにしろ広い家である。許婚の姿は容易には見つからなかった。廊下は長く、薄暗い。部屋という部屋を覗いても誰もいない。人の声さえしない。 
 そうして十分ほど経って、怒る相手が見つからないことにムッとして立ち尽くしていると、ふすま一枚隔てた向こう側から、くっくっと笑う声が聞こえて来た。
 月加は辞書を掴んでいる手に力を込める。
「なかなか隠れるのが上手いだろ?」
 声だけが、襖の向こう側から聞こえてきて。
 月加は返す。
 なるべく普通に聞こえるように。
「ずっと隠れていれば」
「そうしたら」
 と、許婚の腕が、わずかに開いていた襖の隙間から伸びてきた。
 辞書がぽとりと畳の上に落ちる。
「お前が淋しがるだろう」
 自分のものより大きな手に、やさしく掴まれた手首を見下ろしながら、月加は眉根を寄せたまま思う。
 淋しいわけがない。
 何を言っているのだか、この許婚は。
 ちょっとかくれんぼをしただけだ。
 その程度で、七瀬がいないことで、淋しいなんて思ったりはしない。
 広くて薄暗くて人けのない家の中で、心細くなったりもしない。
 するはずがない。
 だから月加はブンブンと腕を振って、その手を離そうとした。
 なのに。
「たまには諦めればいい」
 許婚の言葉に、月加は動きを止めて訊ねる。
「なにを」 
「強がることを」
「……余計なお世話です」
 鼻で笑った。
 でも、襖が開いて、腕を引かれてもされるままになっていた。行きついたのは、許嫁の温もりの中。
 大きな手のひらが、後ろ頭を撫でる。髪を梳いていく。
 ――――と。
 頭のてっぺんに、キスされた。
 月加はぐいー、と七瀬の胸を押しのける。
「……調子に乗らないでもらえませんか」
 じろりと睨みつけても、許婚は意地悪く微笑んだだけだ。
 まったく効き目がない。
「この程度は、調子に乗ったうちに入らないよ」
 じゃあ、どの程度なら入るんだ、どの程度なら。
 とは訊かない。
 訊いたら最後、実行に移されるに違いない。
 だから月加は、てい、と許婚の腕をどかして、囲いから抜け出した。
 辞書を拾う。
「まだ投げたい?」
 面白がっているとしか思えない声にムッとしながら、月加は答えた。
「今日のところは勘弁してあげます」
 許婚は可笑しそうに笑った。
 そうして、月加と七瀬のしょうもない戦いは続いていく。

おわり  

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