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第一章 公爵家のゆううつな日々

「おはようございます、奥さま。お身体はいかがですか?」
 いつものように尋ねる侍女の一人に、エリスは微笑んだ。
「おはよう……。今日はすごく気分がいいの。久しぶりにお散歩にも行けそう」
 そう言ってゆっくりベッドから下りると、侍女たちが着替えを手伝ってくれた。
 部屋着ではなく、人前に出るための服を着るのは何日ぶりだろう。
 顔を洗って鏡の前に座ると、そこに血色の悪い娘の姿が映り込む。
 エリスは子供の頃から身体があまり丈夫ではない。些細なことで発熱したりして、すぐに寝込んでしまう。体調が悪い時には食事もろくにとれないので、とてもやせ細っているし、屋内にばかりいるから色白を通り越して青白い。つまり、どこからどう見ても健康な人には見えないのだ。
(なんだか、思いたくないけど……わたしってすごく貧弱でみすぼらしい……)
 鏡を見るたびに、エリスは嘆息せざるを得ない。
 おまけについ想像してしまうのだ。
 あの天使のような美貌を持つ人の隣に、自分が立っている姿を。
 ――――どう想像しても、似つかわしくない。
 エリスが自分の容姿にうんざりしている間に、侍女の一人が緩やかに流れる栗色の髪を丁寧に梳っていく。その豊かな長い髪だけは、自分の身体の中で唯一気に入っていた。
 侍女は慣れた手つきで両耳の辺りから掬い取った髪を編み込んでいき、エリスの瞳と同じ色の、緑色のリボンを使って頭の後ろでまとめてくれた。
 その背にふんわりと波打たせたままの髪型はいちばん自分に似合うもので、エリスは満足しながら侍女にお礼を言った。寝込んでいる時には結わえないので、こうしてきちんと身なりを整えるだけで気分まですっきりとする。
 珍しく絶好調だと何でも上手くいく気がして、エリスは上機嫌だった。
 けれど、それに水を差すような一言がかけられる。
「奥さま、朝食は旦那さまとご一緒でよろしいですか?」
 と、侍女の一人が悪気のない笑顔で訊いてきたのだ。
 侍女たちはみんな期待のこもった目をして、エリスの答えを待っている。
 にこにこと微笑む人柄の良い彼女たちは、主夫妻が仲良く過ごすことを望んでいるらしい。それがいつもひしひしと伝わってくる。
 エリスは今日こそは期待に応えねばならない、とごくりと息を呑んだ。
(が、がんばれエリス!)
 頷かなければ、何も変わらないままだ。
 誰も知らないところで自分を鼓舞しながら口を開く。
「い、一緒にいただきます」
 よし、言えた。
 エリスは密かに息を吐き出した。

   * * *

 まるでぐうぜん珍獣に出くわしたかのように目を丸くした旦那さまを見て、エリスは早くも回れ右をして自室に戻りたくなった。
「……お、はよう、ございます」
 それでも勇気を出して小さな声でそう言うと、すでに席に着いていた彼は気を取り直すように微笑を浮かべ、「おはよう」と返してくれた。
 彼―――ヘルムート・ジェノ・ラングレー公爵は、食堂の大きな窓を背にしてゆったりと椅子に腰かけていた。その整った容姿は朝の光の中にいるといっそう美しさを増し、エリスの目に眩しく映る。
(きれい……)
 蜂蜜色の髪が透き通るような金色に輝いていて、エリスは声をかけられるまでその様子に見蕩れてしまった。
「今日は体調が良いようだね」
 エリスははっとして、慌てて頷いた。
「はい。お気遣いいただき、ありがとうございます」
 赤の他人のようにぎこちない社交辞令のような挨拶を交わして、エリスは六人掛けの長テーブルの端にちょこんと腰を下ろした。奥に座っているヘルムートとは一番離れた席だ。
(ほんとはお隣の席がいいけど……ヘルムートさま、嫌だろうし……)
 久しぶりに顔を見ることができて嬉しいのはエリスだけで、彼の方は違うのだ。馴れ馴れしく隣になんか座ったら、気分を害してしまうかもしれない。
 それに、距離を置いた方が緊張も緩和されていいだろう。
 そう気を取り直したエリスは、ふと視線を感じてヘルムートの方を窺った。アメジストの瞳とばっちり目が合う。
「あ、あの……?」
 物言いたげに見つめられ、エリスは何か粗相をしてしまっただろうかと不安になる。
 すると、ヘルムートは微妙な顔つきで訊いてきた。
「………そっち、寒くない?扉の傍だし」
「い、いえ。平気です」
「……ならいいけど」
 遠くに座りすぎて、気を遣わせてしまったようだ。エリスは今度からは一つ手前に座ることにした。あまり変わらない気もするが。
 そして、それっきり二人の会話は途切れた。
 運ばれてきた朝食はどれもおいしそうな匂いをさせているけれど、やはり緊張しているせいか、エリスの食欲はいまひとつ湧かない。
 

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