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第二章 エリスの天使

 奇跡のようなことが起きたのは、結婚話が出たふた月後のことだった。
 ある日、エリスが両親に呼び出された部屋に向かうと、そこに彼女の天使さまがいた。大きな窓から差し込む陽光がその蜂蜜色の髪を照らし、透き通るような金色に染め上げる、彼女の最も好きな光景がそこにあった。
『久しぶりだね、エリス』
 エリスの顔はきっと歪んでいた。
 いま誰よりも会いたかった人だ。
 アメジストの瞳を持つ、何よりも美しい天使さま。
『ああ、こら。泣くなよ。……全く、僕はきみに何度そう言えばいいんだろうね?』
 そう意地悪く言ったヘルムートは、けれど言葉とは反対に、うっとりするほど優しく微笑んで、彼女の涙に口づけた。
 そして言った。
『僕のところにお嫁においで』と。
 その日、どういった事情からか、エリスの結婚相手は目の前にいるその人に代わっていたのだった。




 結婚式まではあっという間だった。
 なにがなんだか分からないままに、エリスはヘルムートの花嫁になるべく準備をさせられた。
(なんで?どうして?)
 あの縁談は一体なぜ破談になって、どうしてヘルムートと結婚することになったのだろう。
『おめでとうエリス。本当によかった。お前が幸せになれることを祈っているよ』
 あのとき両親はそう言って、混乱して立ち尽くすエリスを抱きしめた。 
 その肩越しに、ヘルムートと目が合った。
『あの、ヘルムートさま……』
『なに?』
『わたし……ヘルムートさまと結婚するの?』
『そうだよ。きみが僕のお嫁さん。来月からはうちで絵を描くといい。画材をたくさん用意して待ってるよ』
 と、ヘルムートはなんだか嫁ではなく画家を招くようなことを言って、いつものようにほんの少し意地悪そうに微笑んだ。 
 状況は飲み込めなかったが、エリスはそのとき、彼の微笑みを見ただけで安心してしまった。もう何も、不安になることなどないのだと。
 それでも、結婚式当日になっても詳しい事情を知らされなかったので、エリスはさすがに困惑した。
 両親も事情を知っていそうな家人たちも、みんな破談になった縁談のことは語らずに、『おめでとう』とヘルムートとの結婚を祝うばかりで、何ひとつ分からない。ヘルムートがなぜ結婚してくれるのかも。
 エリスはヘルムート本人にもとうぜん訊こうとしたのだが、公爵家のほうで結婚式後の準備があるとかで、とうとう式当日に至るまで会わなかったのだった。
 こんなにうやむやな結婚があるものだろうか。
 そう思ったが、ヘルムートと結婚することが嫌なわけではなかった。ただ、夢みたいに現実感がなくて、いつまで経っても花嫁になる実感が湧かなかっただけで。
 エリスは花嫁の控えの間で、ひとり鏡の前に立っていた。白い上等の絹のドレスにあしらわれたパールの飾りは、上品にその輝きを放ち、胸元では花のつぼみのように可憐なピンクサファイアが煌めいていた。栗色の豊かな髪は、この日のために侍女たちの手によって一段と艶やかさを増しており、体調管理を徹底したおかげで肌もいつになく血色が良かった。 
 まさに爪の先に至るまで、完璧に整えられた状態だった。
 あのヘルムートと釣り合うには色々と足りない要素はあるものの、それでもエリスはそれほどひどくない自分の姿にほっとしていた。
 そして、そわそわと室内を歩き回った。もうすぐ式が始まる。神官の前で誓いを立てれば婚姻が成立し、二人は夫婦になるのだ。
(私がヘルムートさまのお嫁さん……。これからはずっと、ヘルムートさまと一緒……)
 なんだかやっぱり夢の中の出来事のようだったが、そのときになってようやく、エリスの胸は未知なる未来への不安と希望とで、どきどきと高鳴り始めた。
(お嫁さん……)
 その甘い響きが恥ずかしくて、エリスはほんのりと頬を染めたのだった。




 それは偶然の出来事だった。それさえなければ、エリスはあのまま何も知らずに幸せでいられたのかもしれない。
 会場に向かうために控えの間を後にして、侍女たちと回廊を渡っていたときのことだ。一陣の風が吹き、エリスの髪を飾っていた白い花が中庭のほうへとさらわれてしまった。
 いつもであれば侍女に任せるところだが、この日は特別な日だった。エリス自身の結婚式だから、髪飾りひとつでも欠かしたくはなかったし、人任せにするのは嫌だった。
 エリスは侍女たちにそう告げて、中庭に下りた。彼女たちにその場で待っていてもらいながら、エリスはきょろきょろと白い花を探した。思いのほか風に飛ばされたようで、中庭の奥の植木に引っかかっているのを見つけた。それを手にして振り返ると、いつの間にか侍女たちの姿が遠くにあった。エリスは急いでそちらに戻ろうと踵を返したのだが、ちょうどその時だった。
 あの、悪夢のような会話が聞こえてきたのは。
『……も産めないような身体だし、中身もなんら面白みのない平凡な娘じゃないか。あれよりいい女などいくらでもいる』
 どこかで聞いたことのあるような、若い男の声だった。
 振り返ってよく見てみると、生い茂る樹木の向こう側に数人の男性の姿が垣間見えた。
 エリスはそこに、夫となる人の姿を見つけてどきりとした。
 ヘルムートは騎士装束に似た白い花婿衣装に身を包んでいて、その白地に金の刺繍や止め具の施された衣装は、彼の蜂蜜色の髪によく映えていて素敵だった。それでなくとも彼は目立つのに、その日は一段と輝いていた。
 彼らは木立の影にいるエリスには気づいていなかった。何か不穏な様子を感じ取りながら、エリスはそっと彼らを見つめた。
 もうすぐ式が始まる時間だ。中庭にいた他の招待客たちはみんな会場に向かっているというのに、彼らはこんなところで何を話し込んでいるのだろう。
 エリスは何となくその場にいないほうがいい気がしてきて、そっとその場を離れようとした。
 けれど、その会話は残酷にエリスの足を繋ぎ留めた。
 先ほどの声が、明らかに嘲りと分かる声音でこう続けたのだ。
『あんな青白くて貧弱な女、好きこのんで抱くのはよほどの物好きだけだ』
 

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