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第二章 エリスの天使

 そこに名は出なかった。
 けれど、エリスにはそれが自分のことだと分かった。そう貶(けな)される容姿をしている自覚があったからだ。
 彼女の視線はふらりと木立の向こう側に戻った。エリスは血の気が一気に引くのを感じた。
 それだけなら、まだよかった。その上、さらに信じがたい応えが彼女の耳を襲った。
『――――まあ、否定はしないがね』
 そう言ってふっと微笑んだのは、他の誰でもない、ヘルムートだった。
(ヘルムートさま……、どうして?)
 なぜ嘘でも否定してくれないの?
 意地悪で、それでいて優しい人。結婚してくれるぐらいだから、少しは好いてくれているのだとエリスは密かに淡い期待を抱いていた。
 けれど、それは間違いだったのだろうか。ヘルムートは、本当はずっとそんなふうにエリスのことを思っていたのだろうか。
 疑問がいくつも渦巻いて、エリスは混乱した。
(どうして……、なんで?)
 抱きしめてくれたり、頭を撫でてくれたり、あの優しさがすべて偽りだったというなら、なぜヘルムートは結婚までして彼女に構うのだろう。
 あの心からの微笑みだと思っていたものは、エリスの単なる思い違いだったのだろうか。
(やだ……いや……)
 彼らはそれから少しのあいだ話を続けていたが、それをエリスが聞くことはなかった。彼女は侍女たちが迎えに来るわずかの間、けれど永遠にも思える時間、両手で耳を塞いで立ち尽くしていたのだから。
 強い風が吹いていた。
 それはエリスの髪に差された花弁を、またしても散らして行った。


   * * * 


 今ならば、エリスにもわかる。
 どうしてヘルムートが結婚してくれたのか。――――それは単に、エリスの父親に頼まれて、断りきれなかっただけのことなのだ。父親は、娘が件の青年を苦手に思っていることに気づき、親友の息子で、娘とも交流のあるヘルムートに相談を持ちかけたのだ。
 エリスはそれを、結婚式から間もなく、父親本人から教えてもらった。
 ヘルムートはきっと望まぬ結婚だったのだろう。でも彼は意地悪なわりに親切な性分だし、なによりエリスの父親は彼の父親の親友でもある。そんな人からの頼みごとともなれば、引き受けざるを得なかったのだろう。
 あの当初の結婚相手であった青年については、エリスとの縁談が破談になっても、何も不服を唱えなかったということを聞いた。
 たぶん、彼はあの初夏に開かれた夜会でエリスを見初めたと言っていたが、実際に話してみて、つまらない女とでも思ったのだろう。あっさり手を引いたと聞いても、エリスは何ら不思議には思わなかった。
 それに、そもそも公爵家のヘルムートと侯爵家の青年とでは前者が優位であり、こうした場合、後者が途中で縁談をさらわれたとしても大人しく手を引くしかないのが、世の慣わしだった。
 二人の結婚は、そんなふうに何の問題もなく仕組まれたものだったのだ。
 エリスは中庭で立ち聞きした後のことを、ほとんど覚えていない。あのとき彼女は、茫然としたまま周囲に促されるままに式に臨んだ。
 いつのまにかヘルムートが傍にいて、彼が何か声をかけてきたけれど、エリスは言葉が出なくてずっと俯いていたように思う。誓いの言葉を口にしたことも、みんなからどんな祝福の言葉をかけられたのかも、すべて朧気な夢の中の出来事のようだった。
 エリスの様子のおかしいことに気づいたヘルムートが、彼女を気遣う言葉を口にしていたけれど、それらはすべて彼女の心の中を通り抜けていった。
 そんなことは初めてだった。いつだって、エリスはヘルムートの優しさを嬉しく思っていたというのに。 
 エリスが何ひとつ、ヘルムートのことを信じられなくなってしまったのは、その日からだった。
 本心では蔑すまれていると知ってしまったのに、どうしてその優しさや親切を素直に受け入れられるだろう。
 もともとよく分からない人だったが、こうなると、どれがヘルムートの本当の姿なのか全く理解できなかった。向けられる眼差しが偽りと思えぬほど優しさに満ちていても、以前と変わらず可愛がるように頭を撫でられても、そのたびにエリスは思い出すのだ。結婚式の日、彼があの蔑みの言葉を肯定したことを。
 そして、次第に怖くなっていったのだ。
 いつかまた、ヘルムートに傷つけられるのではないかと。今度は面と向かって侮辱されるのではないかと。
 そう思えば思うほど、以前のようにヘルムートと話せなくなった。それどころか、一時期は彼の前では声もろくに発せられなくなってしまった。
 彼は初め、それを病ではないかと思ってエリスを医者に見せた。
 けれど、頭や頬に触れるだけで怯えるようになった妻を見て、そうではないことに気づいたようだった。
 ヘルムートは俯いてばかりのエリスに、静かな口調で問いかけた。
『……きみは僕が怖いの?』
『…………』
 違うとは、言えなかった。
 エリスが黙っていると、それを肯定と受け取ったのか、ヘルムートはため息をついた。
『……それは妻になるのが不安というのとは違うよね。きみはどうも僕自身に怯えているし。――――正直に言っていいから、理由を教えておくれ』
 あなたが私への中傷に便乗したから。
 そう言ったら、この結婚はどうなってしまうのだろう。個人感情はともかく、社会的にはすぐに離縁できる状態ではない。ヘルムートにしてみれば、エリスの両親への義理立てがあるし、公爵家の風聞にも関わる。それゆえ、彼は好いてもいない女を同じ家に置いておく他ないのだ。どんなに気まずくても、どんなに目障りでも。
 ヘルムートの事情を思えば、エリスは黙っているしかない。彼にこれ以上、迷惑をかけたくはなかったし、彼女自身も事実を言って、ヘルムートの口からあれ以上の本心を明かされたら、正気でいられない気がした。
 脆い薄氷に入ったヒビは、割れぬようにそっと維持しなければならない。その中にある偽りを暴かぬように。
 ヘルムートは椅子に深くもたれ、両手の指を交差させた。それは彼の機嫌が悪いときの癖だった。
『……初夜のとき、きみは僕が抱きしめようとしたら気を失ったね。おまけにその寸前、言った言葉が「嫌」「来ないで」「触らないで」』
『ごめ…なさ……』
小さな声で謝るエリスに苛立ったのだろう、ヘルムートはまたため息をついた。
『ほんとに困った子だね。――――お前ぐらいのものだよ、僕をここまで振り回すのは』
 そう言われたエリスの目からは、ぽろぽろと涙が零れた。
 けれど、ヘルムートは以前のように彼女に触れて、慰めようとはしなかった。
 自分が怯えるからだと分かっていても、エリスの心は身勝手なもので、深く傷ついたのだった。




 エリスの心が自分自身を守るために、ヘルムートに対して堅く閉ざされてからというもの、彼は毎夜のように出かけるようになった。他の女性たちのところへ行っているのだと知ったとき、彼女はやはりつらくて泣いてしまった。驚きはしなかったが、ただ悲しかった。
 そうして、ようやく気がついた。
 それはあまりにも遅い自覚だった。

 
 エリスは、ヘルムートに恋をしていた。


(ヘルムートさま)
 その名を呼ぶたび、その姿を思うたび、白い画用紙に色をのせていくように、それはエリスの心を染めていったというのに。
 コレットの忠告を受けるよりも、もっとずっと前から。
 エリスはあのアメジストの瞳に、とうに囚われていたのだ。
 

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