prev / 天使の落下 / next

第三章 花園のふたり

 それは初めての恋だった。
 エリスは、すでに自分の夫となっているヘルムートに、そうと気づかぬまま恋をしていたのだ。
 けれど、それは彼女の片思いでしかなかった。


   * * *


 肌寒い風がわずかに開けている窓から入ってきて、エリスはふるりと震えた。空気の入れ替えのために開けていたのだが、そろそろ閉めたほうがよさそうである。気のきくやさしい侍女の一人が、「お閉めいたしますね」とちょうどよい頃合いに声をかけてくれた。
 エリスは代わりに窓を閉めてもらいながら、毎日少しずつ色づいていく樹木を眺めた。二階にある彼女の自室からは、公爵家の広い庭が一望できる。大した原因もなくたびたび熱を出して寝込み、散歩もままならない彼女にとって、いつでも外の景色を楽しめる部屋はとてもありがたいものだった。 
 それにここからの眺めはスケッチの対象としても最高だ。いまもまさに、エリスは夏から秋に移り変わる庭の様子を窓辺でせっせと描いていた。
 夏のあいだはピンクや赤の薔薇が見事に咲き誇っていて、ほんとうに綺麗だった。夜、眠れずにバルコニーに出ると薔薇の香が甘く華やかに漂っていて、なんとも幻想的な雰囲気を味わえたし、いまは黄色や橙といった暖色系の花々が可憐な様子で風に揺られている。
 筆を持つ手はどんどん動いた。
 しかし同時に、エリスの熱もどんどん上がっているようだ。なんだかくらくらしてきた。
「奥さま!」
 そこで意識の途絶えたエリスが最後に耳にしたのは、ちょうど午後のお茶を運んできた侍女の叫ぶ声だった。




 ひんやりとしたものが額に触れて、それが離れたと思ったら、今度は温かでやわらかいものが押し当てられた。
(…………?)
 なんだろうと思って目を開けたエリスが初めに目にしたのは、見慣れた自室の天井で、そこから視線をさまよわせるが、誰の気配もない。
 確かに誰かがいたのに、とエリスは不思議に思った。吐く息が熱く、身体は悪寒で震えている。汗を拭おうと腕を上げるのも億劫だった。額に手をやると、そこには少し熱を吸って、早くも温くなった手ぬぐいが乗っていた。
(さっきの冷たいの……これだったんだ)
 ぼんやりと考えていると、部屋の扉が開く音がして、誰かが中に入ってくる足音がした。
「お気づきになられました?奥さま」
「……うん」
 それはエリス付きの侍女の一人だった。
 もう真夜中なのだろう、室内は暗く、ベッド脇や扉の壁に備えられている燭台の炎だけが、かろうじて人や物の姿を浮かび上がらせていた。
「あの、さっき、ここに誰かいた?」
 掠れた声で問うと、侍女は「いえ?」と不思議そうな顔をした。
「戻ってきたときには誰も。いまの時間、奥さまのお世話をさせていただいているのは私だけですから。――――ああ、でもお水を取りに階下に下りていた間に、ほかの子がご様子を見に来たのかもしれません。何か妙なことでもありましたか?」
「うん…、誰かが額を冷やしてくれたみたい……」
 きっと他の侍女が用意してくれたのだろう。
 熱で頭がぼうっとしているエリスは、あの柔らかな感触のことはすっかり忘れて納得した。
 疑問がなくなると、瞼は再び重さを主張して、エリスを深い眠りへと誘ったのだった。




 それからエリスは丸三日寝込んだ。熱は下がったが身体がだるく、さらに二日間ベッドから降りられなかったのだ。
 どうしてこう貧弱なのだろう、とエリスはうんざりする。
 体が弱いのは生まれつきだが、丈夫になるように鍛えれば、あるいは普通の健康体に近づけるかもしれないと医者からは言われているのに、少し絵を描いただけで倒れていては、それは到底かなわぬ夢物語にも等しい。
 そういえば、昔エリスは運動のつもりで森にピクニックに出かけたことがあったのだが、そもそも身体を鍛える余力がなかったため、情けないことに山に辿り着く前にあえなく倒れ伏す――――ということがあった。
 それならば、と今度は子供がする球遊びを侍女たちとしてみたが、そのときは夜になって熱を出してしまった。
 無理をすれば、すぐに倒れるか発熱する。そういうとんだ悪循環になるので、両親も乳母をはじめとする使用人たちも、最終的にはエリスが何もせずに部屋で大人しくしていることを望んでいた。
 その点、夫であるヘルムートは子供の頃からたまに注意するくらいで、ほとんど口出ししない人だった。
 たとえ嫁いできてからのエリスが、屋敷の中をうろうろ歩き回ったあげく発熱しようが、近所に散歩に出て行き倒れようが、とにかく彼女の行動を制限するほどの強い干渉はしなかった。

prev / 天使の落下 / next


inserted by FC2 system