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第三章 花園のふたり

 子供の頃、エリスはそんなヘルムートに対し、自分の意思を尊重してくれているのだと感じていたが、いまは単に放置されているだけだと分かっているので、少し――いやかなり淋しい。
 それに主人がそんな感じだからか、この屋敷の侍女たちは心配はしてくれても、さほど強固に止めるわけではない。これが実家の使用人たちなら、まるで彼らの娘や妹にするように、何かにつけてあれこれと口出しするはずだ。
 そんな環境の違いを思えば、余計に淋しく感じたが、しかし放置主義のおかげか、実家にいたときよりも身体を動かす時間が増えて、寝込む頻度は心なしか減っていた。
 エリスはいつもより少しだけ熱心に絵を描いただけで寝ついたくせに、懲りもせずやはり多少の無理も必要なのだ、とベッドの中で思った。
 ともあれ、ようやくベッドから降りられた日、エリスは久しぶりに入浴をした。寝込んでいる間はお湯につけた布で身体を拭くしかなかったので、広い浴室に入って湯船に浸かるとうっとりするほど気持ちよかった。
 お風呂から上がると、まだ本調子ではないため、いつでも横になれる室内用の簡素な服に着替えた。淡い色のワンピースは胸の下でリボンを結ぶだけのものだが、着心地がよく動きやすいので、華美なドレスよりもエリスの好みだった。
 さて、久しぶりにさっぱりとして気分が良くなったので、エリスは少しだけ庭園を散歩しようと思った。それくらいならば、無理にもならぬ程度だ。たぶん。
 エリスはにっこり笑ってショールを羽織った。久しぶりの外出だ、屋敷内とはいえ嬉しくないわけがない。
「奥さま、ご無理なさってはいけませんよ。具合が悪くなりそうだったらすぐにお戻りくださいね」
 気遣わしげに、部屋で待機を命じられた侍女のうちの一人が言った。
 一人でゆっくり歩きたい気分のとき、エリスはよく侍女の付き添いを断っていたので、お許しはあっさりと出る。けれど、普段は実家と違って口うるさく言わない公爵家の人々も、長く寝付いた直後は例外だったようで、いつもより念入りに注意されてしまった。
 エリスは侍女に見送られ、うきうきと広い庭へ出た。この公爵家の庭は奥行きが見えぬほど広くて、とても散策のしがいがある。
 見渡すと、寝込んでいた間に樹木の色づきが少し深まっていることに気づく。庭には名も覚えきれぬほど多くの種類の花や木々が植えられていて、いくら見ても飽きないとエリスは何度見ても感心する。侍女が言うには、今は田舎で隠居暮らしをしているヘルムートの父親が、亡き妻のためにつくった特別な庭だそうだ。
 見頃を終えた薔薇のアーチをいくつもくぐって行くと、エリスの開けた視界に広がるのは薄い青空を背負った暖色の花々だった。黄色、橙、赤、それに紫や白も混ざっている。
 エリスが澄んだ空気を吸い込むと、花や木や土の香りがした。
 気持ちの良い午後だった。
 庭の半分ほどを歩き回り、エリスが楓の樹の下で一息ついていると、ふいに純白の花の茂みの向こうから、土を踏みしめる音が近づいてきた。
 園丁のおじいさんだろうか、とエリスは思った。それとも、侍女が心配して様子を見に来たのかもしれない。
 しかし、彼女が見つめる先から現れたのは、そのどちらでもなかった。
 エリスは息を呑んだ。
「エリス」
 そこに現れたのは、ヘルムートだった。
 純白の花の茂みを背にして立つ彼は、まるで天使の翼を持っているように見えた。
 茫然と立ち尽くしたエリスに、ヘルムートは少し苦笑のようなものを浮かべて歩み寄ろうとした。
 けれど、同時にエリスがわずかに後ずさったのを見て、その足を止めた。
「……」
「……あ、あの」
 それは無意識でのことだったので、エリス自身も己の行動に戸惑った。
 とうてい夫に対するものではない態度に、ヘルムートは怒っただろうか。そう思ったら、彼の顔が見られずに、エリスはいつものように俯いてしまった。
 

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