風がざわざわと葉擦れの音を響かせる。
「―――エリス、まだ動ける?」
少しの沈黙の後、ヘルムートは何事もなかったかのように尋ねた。
エリスはどういう意味だろうかと思いながら、恐る恐る顔を上げた。
(ヘルムートさま、怒ってない……?)
「あ…の、動けるって…?」
「身体の調子が良いなら、少し散歩に付き合ってもらいたいんだけど。――ああ、顔色は良いみたいだね」
「え…っ」
(お散歩…?ヘルムートさまが、わたしと……?)
そんなお誘い、結婚してからは初めてのことだ。エリスはびっくりして瞬いた。
「――嫌?」
エリスがぽかんとして固まったのをどう捉えたのか、ヘルムートはそう訊いた。
―――嫌なわけがない。
エリスは嬉しくて、頬を染めながらふるふると首を横に振った。
「そう」
ヘルムートも、心なしか表情が和らいだ気がした。
気を遣って誘ってくれただけだとわかっているけれど、エリスはヘルムートと一緒にこの綺麗な庭を歩けるのだと思うと嬉しかった。
二人は色とりどりの花を眺めながら、ゆっくりと歩きはじめた。
けれど、ヘルムートは何も話しかけてはくれなかったし、一方のエリスはいつもと同じく緊張していたので、会話を試みるどころかその場にいるだけで精一杯だった。
それでもエリスは本当に嬉しかった。会話が出来ないのは寂しいが、ヘルムートがどこにも行かず、他の誰でもない自分と一緒にいてくれるのだと思うと、少しだけホッとした。今だけは、わたしだけがこの人の傍にいるのだと。
ヘルムートは人ひとり分エリスの前を歩いていたので、彼女はじっとその広い背中を見つめていた。
翼でも生えていそうな、そんな美しい人を。
ふいに、ヘルムートが視線に気づいて振り向きそうになったので、エリスはぱっと花や草木に目を逸らした。彼女はさっきから何度も同じことを繰り返していたのだが、さぞ挙動不審に映ったのだろう、
「エリス、様子が変だけど疲れたの?」
と、尋ねられてしまった。
エリスがふと気がつけば、ヘルムートの背後には樹木に囲まれた東屋(あずまや)が見えた。いつの間にか、先ほどの場所からけっこう歩いていたようだ。
「い、いえ」
「そう…?ずっと俯いてるから、気分が悪くなったのかと思った」
ヘルムートはそう言って、こちらに近づいて来た。
エリスの鼓動はたったそれだけで速まって、足がまたしても逃げそうになったが、じっと堪えた。
逃げる理由なんてないのだから。
けれど、エリスはすぐ目の前まで来るヘルムートを直視することはできず、いつも通りにじっと俯いて固まってしまうことだけはやめられなかった。
ひたすら足元を見ていると、斜め上からヘルムートの静かな声がかけられた。
「―――エリス、顔上げて」
その瞬間、心臓が跳びはねる。
「え…?」
なぜそんなことを言うのだろう。自分はよほど変な顔色をしていたのだろうか。
「エリス」
「……や、やです」
困惑したまま、つい、そう返してしまった。
たちまちエリスの血の気は引いていく。
また自分は、この人のことを拒否してしまった。
でも、――――だって。
(ヘルムートさまはこんなに綺麗なのに)
そんな人に、自分の青白い顔をまともに見られるなんて。
エリスは恥ずかしくてみじめな気持ちになった。
子供の頃、まだヘルムートと普通に接していた頃はそんなこと気にしなかったのに。――――今は違った。
(だってヘルムートさまは、顔色が悪いのヤだって思ってる)
思い出さないように努力していたのに、エリスの頭の中には、もう何度も繰り返し聞いたあの日の言葉が甦った。
『あんな青白くて貧弱な女、好きこのんで抱くのはよほどの物好きだけだ』
場所もよくなかった。あれは、こんなふうに庭の中で交わされた会話の一部だったのだから。
エリスは、木々の中に立つヘルムートを見ると、いやでも思い出してしまうのだ。
それはヘルムートが言った言葉ではないけれど、いまではもう彼自身の言葉のように思えてならない。
あのときヘルムートは否定してくれなかった。その通りだと認めたのだ。