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第四章 秋のお祭り

 昔、エリスは同性で唯一の友人であるコレットと、些細なことから一度だけ喧嘩をしたことがあった。
 それは大人しいエリスが、ほとんど一方的にコレットに怒られるという喧嘩にもならぬ喧嘩だった。
 エリスは他人に大声で怒られたことがなかったので、ひどくショックを受けて、その晩まったく情けないことに熱を出して寝込んでしまった。
 ベッドの中で、エリスはずっとどうすれば仲直りできるのか考えていた。考えて、考えて、また熱が上がった。


『困ったときは、これに即相談せよ』


 当時まだ存命だった祖父は、エリスの枕元に来て内緒話をするように、笑顔でそっと言った。祖父の後ろに、「これ」扱いされた黒髪の少年が立っていた。
『か弱いそなたのために、このじいが頼んできたのだ。これからは困ったことがあれば、なんでもこれに相談するがよい。そなたを助けてくれるぞ』
 片眉を器用に上げてエリスを見つめていた少年は、無表情にこう言った。
『薄幸そうな面(つら)だな。お前、しょうもない相談したら張っ倒すぜ』
 その直後、彼は祖父に頭を叩かれていた。
 翌日、エリスはコレットとあっさり仲直りすることが出来た。少年がコレットに何か言うかしたらしいが、彼は肩をすくめただけで何も答えてくれなかった。
 それからというもの、エリスはどうしても自分の手に終えない悩み事が生じると、決まって彼に相談していたのだった。


   * * *


 ベッドの上で重い瞼を開いたエリスは、自分がヘルムートの目の前で倒れたことを思い出した。
 嫌いだと言うヘルムートの声が蘇る。
(夢だったらよかったのに)
 エリスの頬に、静かに涙が伝った。
 薄氷はあの瞬間、割れてしまった。知ってはならない真実は、ついにその暗い水底から浮かび上がってしまったのだ。
 エリスは涙に濡れた頬がひやりとしても、拭うこともなく考える。
 ヘルムートに嫌われてしまった理由を。
(青白くて、貧弱で、可愛くないから?)
(すぐに泣いてうっとうしいから?)
(大人しくてつまらないから?)
(したくもないのに結婚することになったから?)
 疑問も、その答えも、いくつも湧き上がってくる。
 いつから嫌われていたのか。
 そして、――――どうしたら好きになってもらえるのか。
 エリスは止まらない涙を押しとどめるように、ぎゅっと目を閉じた。
 その時だった。
「相変わらず、泣き虫ねえ」
 と、ベッドの横から聞きなれた少女の声が聞こえてきた。
 エリスはびっくりして、そちらに顔を向ける。
 椅子に座って、じっとこちらを見ている飴色の瞳と目が合った。
「コレット…………!」
「あはは、驚いた?久しぶりにあなたの顔を見ようと思って、遊びに来たのよ」
 快活に笑う友人に、エリスはわけもなく安心して、ぽろぽろと泣いてしまう。
「ちょっと、こら。なんだってそう泣けるのかしら。あなたの身体、ぜったいに水分が足りなくなってるわよ」
 と、コレットはベッド横のテーブルから水差しを手に取り、グラスになみなみと水を注いで手渡してくれた。
「あ、ありがとう」
 のろのろとエリスは起き上がった。身体がずいぶんと重い。走ったのがよほど障ったらしい。冷たい水で喉を潤すと、少しほっとした。
「庭で倒れたんだって?あなたの旦那から聞いたわ」
「え……っ」
(そういえば、私を部屋に運んでくれたのって)
 エリスはごくりと息を呑んだ。あの場にいたのはヘルムートだけだ。
「どうしよう……」
「なにが?」
 コレットは訊き返しながら、エリスの手からグラスを取り返した。そうしなければ、動揺しているエリスの手からグラスが落っこちそうだったからだ。
「わたし…、またヘルムートさまに…ご迷惑かけちゃったの」
 それもあんなことを言われた直後に。余計に嫌われていたらどうしよう、とエリスは涙目でオロオロとうろたえた。
「エリス、ちょっと落ち着きなさいよ。私わけがわからないから。何があったか詳しく話してくれる?」
「…………」
 そう言われて、エリスは黙り込んだ。
 結婚式での出来事も、この冷めた結婚生活のことも、エリスは誰にも話していなかった。もちろん、コレットにも。それなのに、いきなり自分の夫に嫌われていることを告げるのは、あまりにも情けなくて勇気がいる。
「エーリースー」
 焦れた声を発して、コレットは手にしていたグラスをがつんとテーブルに置いた。グラスが音を立てて僅かに揺れる。
 それをぽかんとして見つめるエリスに、コレットは椅子にふんぞり返りながら言う。
「どうせ上手くいってないんでしょう。あの浮気公爵と」
「…………」
 エリスは黙って俯いた。
 相変わらずなのは、コレットも同じだった。
 彼女は昔から、エリスと違って言いにくいことをはっきりすっぱり言える人なのだ。
「いつだったか言ったわよね、あれは止めておきなさいよって」
 それはエリスがよく思い出す、二年前に開かれた初夏の夜会のことだ。コレットは確かに、ヘルムートに心を奪われるなと忠告していた。
「――まあ、今から思えば、あの時すでにあなたたちは知り合ってたんだけど」
「だ、黙っててごめんなさい……」
 エリスはヘルムートと結婚する直前まで、コレットに以前から彼と知人であったことを話せなかったのだ。
「いいわよ、そりゃあ知ったときはびっくりしたけど。こっちこそ、あなたによくない噂聞かせて悪かったわ。―――と言っても、事実だったわけだけど」
「…………うん」
「私ね、あなたが幸せで、あの公爵のこと信用してるならそれでいいと思ったわ。結婚する前日に会ったとき、見たことないくらい嬉しそうだったから」
「そう、かな」
 ……そうだった。
 エリスは、なぜヘルムートが結婚してくれるのか分からずに戸惑いながらも、彼と一緒にいられることになって嬉しかったのだ。
「でも、今はぜんぜん幸せそうじゃない。暗いったらないわ、何なのその顔」
 エリスがしゅんとして黙っていると、コレットは肩を引き寄せて軽く抱きしめてくれた。彼女がつけている華やかな香水が、ふわりと香る。
「『ヘルムートさまが迷惑』とか何とか言ったわね?なんで自分の夫にそんなに遠慮してるのよ。倒れた妻を運ぶのは夫の役目と決まってるのよ!」
「そ、そうなの……?」
 そんな責務、聞いたこともないけれど。
「そうよ!あなたって本当に時々信じられないくらい馬鹿だわ。あんな浮気男、どんどん迷惑かけてやるくらいの勢いで付き合わないと、この先もたないわよ」
 コレットはエリスがあ然とするほど容赦なく言った
 

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