コレットが訪れた日の夜、エリスは彼女に元気を分けてもらったおかげか、いつもよりも早く体調が回復した。ベッドから出て部屋の中を動き回れるようになると、エリスはかなり悩んだ末、ある行動に出た。
夜も遅い時間だった。そっと自室のドアを開けると、廊下はひんやりと冷えていた。侍女やそれ以外の使用人たちもほとんど休んでいる時間だから、しんと静まり返っている。
エリスの胸はどきどきと高鳴った。それは、うろついていることを誰かに見咎められるかもしれないという緊張から来るものではなく、いまから会いに行こうとしている人の反応を想像してのことだった。
エリスは寝間着姿のまま一つ上の階にあるヘルムートの自室まで行くと、その前で足を止めた。扉の隙間からはわずかに暖かな色合いの明かりがもれていて、彼がまだ起きていることを物語っていた。
エリスは胸元で両手を握り合わせ、ゴクリと息を飲んだ。
(―――――少しお話してもいいですか、…あ、違う…。お邪魔じゃなければ、お話してもいいですか……)
頭の中で、ヘルムートに最初に話しかける言葉をしつこいほど復唱する。なんだか緊張して嫌な汗が出てきた。
別にコレットの助言通りに「好きです」と言いにきたわけではなく、ただ昼間のお詫びに来たのだが、それだけでもエリスにとっては勇気のいることだった。―――本当は、いつか「好き」とも言いたいけれど、今それを告げるのはもっと勇気がいることだから。
エリスはとりあえず、今夜は昼間の失礼な態度と迷惑をかけたことへのお詫びだけをしようと思ったのだ。
しかし、エリスはもう数分間も扉の前に佇んでいるのに、なかなかノックすることができずにいた。悩んだ末に意を決して来たはずなのに、それでもためらいが生じるのは繰り返し頭の中で響く『嫌い』という言葉を思い出してしまうからだ。
エリスは泣きそうになるのをぐっと堪える。コレットのように強くなろうと思った。
(よ、よし…、いつまでもこんな所にいても意味ないんだから……ノックしなきゃ)
コレットはきっと約束通り、ヘルムートにエリスと話合う機会をつくるように言ってくれているはずだし、彼は無下に追い返したりするような人ではないから、ちゃんと話をしてくれるはずだ。
だから、大丈夫。扉を叩いて、お詫びをしなきゃ。大丈夫だから………。
「……」
エリスの小さな拳は、音を立てずにそっと扉に触れた。勇気が欲しい。傷ついても構わないと思える勇気、ヘルムートと向き合う勇気が。
手を上げては下ろし、また上げては下ろす。その繰り返しを何回かしたところで、エリスは思いもかけない方向から声をかけられた。
「……なにしてるの、エリス」
「きゃあっ」
エリスは悲鳴と共に飛び上がった。幸い、普段から声の小さな彼女の悲鳴は、階下の使用人たちには聞こえなかったようだ。誰かが駆けつける気配はない。
「きみってさ……、ちょっと悲鳴を上げる訓練をしたほうがいいんじゃないの?何かあったとき、そんなんじゃ誰も気づかないよ」
そう呆れ顔で言って、エリスの右側の廊下から歩み寄ってきたのは、部屋の中にいると思っていたヘルムートだった。
悲鳴を上げてしまったことが恥ずかしいやら、申し訳ないやらで、彼女の顔は真っ赤に染まった。
「――――どうぞ?」
「あ……」
先に扉を開けたヘルムートは、少し身体をずらしてエリスが入りやすいようにしてくれた。たったそれだけのことを嬉しく思いながら、彼女はおずおずと部屋の中に入った。
ヘルムートの自室に入るのは、子供の頃以来だった。父親と遊びに来た、そのたった一度の折、彼はエリスに絵の具と筆を贈ってくれたのだ。
落ち着いた雰囲気の室内は、ほとんど記憶に残っていないために、初めて来たのと同じ感覚だった。小箪笥、テーブル、長椅子、暖炉……。
ピンクや黄色、白といった色合いで、可愛らしい装飾の多いエリスの部屋とは異なり、こちらは上品で落ち着いた色合いと装飾をしている。
部屋の奥にある続き間の扉は開け放してあって、そこから寝室に繋がっているのが見えた。
(これがヘルムートさまのお部屋なんだ……)
エリスは長椅子を勧められて、そろそろと遠慮がちに座った。
その間、彼女が物珍しげに観察していたからだろう、ヘルムートは可笑しそうにくすっと笑った。
「きみは前にもここに来たことがあるのに、覚えてないの?」
「あ、はい……。あまり……」
「そう。まあずいぶん昔のことだからね」
ヘルムートは椅子には座らず、机の前に立ったままエリスを見つめた。
彼女はその視線を受け止められず、いつものように緊張しながら俯いたが、彼が普段通りの態度なので少しホッとしていた。
(…ヘルムートさま、怒ってないのかな……?)
そう思っていると、ヘルムートが問いかけてきた。
「それで?どうしたの、こんな時間に」
「あ、えっと…あの、私」
「―――きみのそれってわざと?」
「え?」
突然そう訊かれた意味が分からず、エリスは戸惑いながら顔を上げた。
すると、ヘルムートはいつの間にか微笑んでいた。
けれど、そのアメジストの瞳は――――――。
感情の読めない眼差しに、エリスは震えた。