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第一章 公爵家のゆううつな日々

(な、何か話さなきゃ)
 エリスはスープを掬いながら、必死に言葉を探した。
 一体いつ以来だろうか、彼の顔を見るのは。
 もうずいぶん前のような気がする。なにしろ自分はしょっちゅう寝込んで部屋から出ないし、彼の方は外出時間が長くほとんど家にいないから。
 完全にすれ違い生活を送っているので、もちろん会話をするのも一緒に食事をするのも久しぶりだった。
 久しぶりすぎて、エリスはとても緊張していた。話すべきことも話したいことも確かにあったはずなのに、彼の顔を見たとたん吹き飛んでしまうほどに。
 かといって、何も話さないわけにはいかない。せっかくの機会なのだから。
 エリスはまず頭の中で話題を考えてみた。
『最近、どうですか?』
(……どうですかって何が?)
 エリスは自分に突っ込みを入れながら、スープを意味もなくクルクルとかき混ぜた。野菜のスープは緩やかに渦を巻く。
『久しぶりにお会いしましたけど、お元気でしたか?』
(た、他人みたい)
 いや、一度も夫婦らしいことをしていないのだから、自分は未だ彼にとっては他人も同然の存在だろう。
 その点、浮気相手の方が自分などより、よほど彼と親密な関係だと言える。
 エリスはそんな後ろ向きなことを思って、ひとり落ち込んだ。人参がスープの中に沈んでいく。
『夕べはどちらに行かれてたんですか?今日も朝帰りでしたね。楽しかったですか?』
 そんな自虐行為に等しい、あるいは嫌味ともとれる質問ができるほどエリスの神経は図太くない。そもそも答えなど分かりきっている。楽しくなければ浮気なんてしないはずだ。
 しょんぼりしながら、エリスはじゃがいもを掬った。が、口には運ばず、それをまたスープの中に戻す。その繰り返し。
『……たまには、お休みの日くらい私と一緒にいて下さい』
 ふと、頭の中にそんな言葉が浮かんでエリスは手を止めた。
 ああ、そうだった。
 それを言いたかったのだ。
 傍にいて、どこにも行かないで、と。
「………あ、の」
 エリスは自分の声が震えているのが分かった。みっともないと思う。でも、どうにもならないのだ。自分から彼に声をかけるなんて久しぶりで。
 食堂の隅に控えている使用人たちが、ぱっとこちらに注目する気配がした。「奥さましっかり!」という声さえ聞こえてきそうだった。
 エリスは緊張しながら、勇気を出してヘルムートの顔を見た。
 そして、そのとたんに気が挫けてしまった。
 ふだん滅多なことでは驚かない彼が、まるでぐうぜん出くわした珍獣がいきなり人語を話し出したとでもいうように、とてもびっくりした顔でこちらを見ていたからだ。
 しかし、それは気のせいかと思うほどすぐに引っ込められる。
 彼は柔らかな微笑を浮かべ、「ん?」と優しく訊き返してくれた。
「あの……」
 エリスはそれ以上何も言えなかった。
 とつぜん変なことを言い出して、さっき見たような顔で驚かれたあげく拒否されてしまったら絶対に立ち直れない。
 だから、かわりに首を横に振って何でもないことを伝えた。
 壁際の使用人たちががくっとうな垂れたのが視界に入って、エリスはいたたまれない気持ちになった。
「―――そう。思い出したら、いつでも言って」
 ヘルムートは穏やかな口調でそう言った。
 エリスは泣きそうになる。
 今みたいに彼を優しい人だと感じるたびに、きっと他の女性たちにも同じように優しいのだろうと思ってしまうから。
(私はヘルムートさまの、特別じゃない)
 事実というナイフが、エリスの胸を突き刺した。
「あのさ」
「……は、はい!」
 彼に話しかけられると、もうそれだけで心臓が飛び跳ねてしまう。エリスはどきどきしながら顔を上げた。
 けれど、彼はもうこちらを見ていなかった。野菜サラダにフォークを突き刺しながら言う。
「絵を描くなとは言わないけど、無理しないようにね。また寝込むことになるよ」
「……はい。ごめんなさい」
「……僕に謝らなくてもいいけど」
「はい……」
 呆れたように言われてしまい、しゅん、とエリスは俯いた。
 エリスには身体が弱いくせに無理をするという悪癖があり、特に多いのは絵を描くのに夢中になりすぎて熱を出すパターンだった。ちょっと疲れてきたなと思っても、元気な時にしか筆を握れないので、ついつい根を詰めて描いてしまうのだ。
 ここ数日寝ついていたのもそのせいで、ようするに自業自得だった。
 でも、それをヘルムートに素っ気ない態度で注意されると、エリスの胸はズキンと痛んだ。
 きっとものすごく呆れられているに違いない。優しい口調が消えるほど。
 そして、それっきり会話はなくなってしまった。
 エリスはひたすら沈黙に耐えながら、もそもそと食事を続ける。
 きっとこんな時、彼の遊び相手たちなら何かしら気の利いた話をするのだろう。そんなことばかりが頭を過ぎる。
 目覚めたときの晴れやかな気分は、食欲と共にいつのまにか消え失せてしまっていた。
 しばらくすると、先に食べ終えたヘルムートが立ち上がった。
「お先に。きみはゆっくりお食べ」
 彼はエリスにはまったく関心のない様子でそれだけ言い残すと、さっさと部屋を出て行ってしまった。
(ヘルムートさまのばか……)
 呟きは、やはり心の中に留まった。
 彼はいつもこうだった。
 たまに一緒に食事をしても、エリスの青白い顔を長く見ていたくないのか、決まって先に退席する。
 エリスはパンと一緒に泣きたくなるような惨めさを飲み込んだ。

 

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