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第四章 秋のお祭り

「…あ、の」
 それはエリスの苦手な、彼の作りものの微笑だった。
 しかし、何かがいつもと違って見える。あまりにも強く見つめられているせいだろうか。あるいは、こんな風に感情を窺わせない目をすると、まるで全然知らない人のように感じるからか。
 柔らかな雰囲気の、美しく優しい天使。
 でも今は、今のヘルムートは、エリスの知っている彼ではないように思えた。
 だから、とっさに俯こうとしたけれど、その眼差しはエリスを離さないとでもいうように、身じろぎすること自体を許さなかった。
(怖い……)
 エリスは涙ぐみそうになったが、ヘルムートはおかまいなしに言葉を続けた。
「……わざとって言うのは、こんな夜遅くに寝間着姿で男の部屋を訪ねるなんて、わざと誘惑してるの?―――って意味なんだけど」
「…………ゆうわく?」
 エリスはぽかんとした。
(ゆうわくって、え、何?誰が…?寝間着姿って…………)
 その内容を一拍以上おいて理解したエリスは、再び頬を真っ赤に染めた。
 ヘルムートの部屋に行くことで頭がいっぱいで、時間のことや自分の格好にまで気が回らなかったのだが、確かにこんな恰好でこんな時間に人の部屋を訪ねるのは失礼なことだった。
「ご、ごめんなさい」
 エリスは慌てて謝った。
 でも、『わざと誘惑してる』とはどういう意味だろう。エリスは不思議に思った。寝間着姿で来たのは失礼だったけれど、それが誘惑することになるだろうか?―――――いや、ならないはずだ。
 エリスは子供の頃のことを思い出した。彼女はベッドの上で過ごすことが多かったので、その頃はもちろん、成長してからも、お見舞いに来てくれたヘルムートの前で普通に寝間着姿をさらしていたのである。
 時にはその上に肩かけをしたり、上着を羽織ったりすることはあったけれど、でも基本的に、起き上がれないほど弱っていた時は寝間着姿だった。
 エリスはそれを特に気にしたことはないし、ヘルムートだって今までは何も言わなかった。
 だから、今さらエリスがそんな姿をさらしたからといって、彼が本気で誘惑だなんて思うはずはなかった。だいたい、結婚してからだって、初夜のときにエリスの寝間着姿を見ているのだから、珍しい光景でも何でもないはずなのに。
(……やっぱり、昼間のこと怒ってるんだ……。だから、そんな意地悪……)
 それと、こんな時間に訪ねたことも気に障ったのかもしれない。
 ―――――でも、だからって、『誘惑』だなんて言わなくてもいいのに。
 エリスは落ち込みながらそう思った。
 だって、そんな恥ずかしいこと自分にできるわけがないのに。ヘルムートだって、この性格を知っているのだから、『誘惑』なんかじゃないことくらい分かっているくせに。
(いじわる……)
 ただ話がしたくて来たのだと、それも彼はきっと分かっている。
 なのに。
「ごめんなさいじゃなくて。どういうつもりかって訊いてるんだよ、僕は」 
 と、ヘルムートは追いうちをかけるように苛立たしげに言った。
 それは、これまでにないきつい口調だった。
「…わ…たし……」
 エリスは泣きそうになるのを堪えたが、その大きな緑色の瞳は否応なしに涙で滲んだ。
 頭の中では色々と思うことはあるのに、実際にはうまく話せないことがもどかしい。あげく、怖いやら悲しいやらで涙を浮かべてしまう自分が情けなくて仕方なかった。
 けれど、ここで挫けて逃げ出したら、またいつもと同じになってしまう。
 だから彼女は、懸命に言葉を紡いだ。
「わたし、ただ……昼間のお詫びがしたくて……」
 それと、たぶん倒れたところを運んでくれたのは彼だから、お礼を言うつもりだった。
 しかし、緊張していたエリスは、その後半の部分を省いて言ってしまった。あ、と気がついた時には、なぜだかヘルムートがますます不機嫌な様子になっていたので、彼女はそれ以上の言葉を失う。
 きっとヘルムートは、昼間のことを思い出して怒りが増したのだ。
 そう思ったら、エリスの感情は限界に近づいた。目に溜まった涙をあふれさすまいと必死に我慢するが、今にも決壊しそうだということは自分でも分かっていた。
 でも、ここで泣いたらもっと失礼になる。嫌われる。
 その一心で耐えていた。
「お詫びって、きみが僕を見て怯えたこと?あるいは逃げ出したこと?――――それとも他に………」
 と、彼はなぜかその先は言わなかった。
 エリスには、その後にどんな言葉が続くはずだったのかは分からない。でも、きっとこれまでに犯した失礼極まりない態度のことだろうと予想できた。
 沈黙が流れる。 
 ヘルムートはもう微笑んではいなかった。その代わり、アメジストの瞳を冷たく細めてこちらを見ていた。
 彼はやがて別のことを言った。
「……きみと話してると…、疲れるよ」
「―――――え…」
「……きみだってそうだろう?」
 そう問われ―――――震えながらも彼の視線を受け止めていたエリスの心は、とうとう折れた。
 涙が零れていく。
 同時に、はっきりと思い出してしまった。あの結婚式でのことや、今日、嫌いだと言われたこと。
 そのうえ、今また『疲れる』と彼は言った……。
 エリスは涙を見せたくなくて、俯いたまま首を横に振った。
(わたしは疲れたりしない。怖くて、つらくて、緊張するけど、でも)
 顔を合わせて嬉しいと思うのは自分だけなのだと、エリスは改めて思い知ってしまった。膝に置いた両手が震えて止まらない。
(も…やだ)
 怖い。
 やっぱり、一緒にいると嬉しいよりも、怖さのほうが勝ってくる。
 ヘルムートは昔から意地悪だった。その頃から、エリスはよく泣かされていた。
 けれど、こんなふうに恐れたことなどなかったのに。
 ぜんぶあの結婚式のせいだ、とエリスは思った。あれが、悪夢の始まりだったのだ。その口から発せられるすべての言葉に、単純な意地悪以外の蔑みが含まれているのではないかと感じるようになってしまったのも、傷つくのが怖くてたまらなくなったのも、みんなみんなあれからだ。
 いっそ結婚しなければよかったのだろうか。
 でも、エリスはあの時なにがなんだか分からない状況だというのに、ヘルムートだけを信じて結婚式に臨んだ。だから、きっと何度同じ状況になってもエリスは結婚していたように思う。
 それに、そんなことを今さら考えたって仕方がない。問題なのは、今、何も言えない自分なのだから。
 

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