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第四章 秋のお祭り

 秋の豊穣祭は、毎年一回行われる祭事で、規模は違えど国の各地で行われている。
 王都では中心部の広場に設けられた舞台で、巫女が豊穣の神に楽と舞を捧げるほか、大通りでは各地からやってきた商人たちがさまざまな農作物や工芸品の店を開く。
 さらに、物珍しい異国の楽団や劇団、見世物小屋までが現れて、そこは普段にも増して賑わうのだ。
 エリスとヘルムートを乗せた公爵家の馬車は、中央通りの入り口で停まった。人混みが激しいので、そこから先は歩くように規制されていたからだ。
「気をつけて」
 先に馬車を降りたヘルムートはそう言って、まだ中にいるエリスに手を差し出してくれた。
「あ…」
 きっとそれは、他の人々にしてみれば何ということもない、紳士ならば当たり前の行動だった。
 でもエリスは、たったそれだけでドキドキした。その手に自分から触れたことなどなかったし、一緒に出かけること自体はじめてのことだから、彼からこんな風にエスコートされることにも慣れていなくて。
 エリスはヘルムートの大きな手の平に、おずおずと自分の手を置いたのだが、彼はその遠慮がちに乗せた手をしっかりと握ってくれた。
 手が熱い。たぶん、エリスはいま顔も真っ赤になっているはずだ。
「あ、ありがとうございます…」
「ん、」
 短く返事をしたヘルムートに支えられながら、馬車から降りたその瞬間、二人の距離は自然と縮まった。
 彼の胸元に頬がわずかに触れ、その匂いに急速に鼓動が高まる。
 エリスは昨夜のことを鮮明に思い出してしまった。
 ただ引き止めるためだけに、とっさにヘルムートの背中に抱きつくなんて。きっともう一生しないような大胆な行動だった。
『行きたいです…っ』
 と、エリスがか細い声で叫んだ後の、ヘルムートの表情。
 まるで今まで自分を無視していた珍獣が、いきなり攻撃を仕掛けてきたかのようにびっくりしていた。
 いつも冷静な彼の、あんな顔は初めて見た。
 ヘルムートはその後すぐに、『そう…、じゃあ、一緒に行こう』と何事もなかったかのように答えてくれたけれど。―――――なにか無理しているような、こらえているような奇妙な表情を一瞬だけ浮かべていた。
 きっと、唐突すぎるエリスの行動に呆れて、でもそれを表に出さないように我慢してくれていたに違いない。
 思い出すと本当にいたたまれない気持ちになってくる。
(……でもだからこそ、今こうして一緒にお出かけできたんだから、…うん。は、恥ずかしくないもん)
 本当は死ぬほど恥ずかったけれど、エリスは必死に自分に言い聞かせた。
 ただ、女の子が自分から男の人に抱きつくなんて、はしたないと思われていなければいいのだけど。
 そんなことを心配したエリスは、そもそも自分はすでに彼に嫌われているという悲しい事実を思い出した。
 なのに、まさかそんな自分と本当に出かけてくれるなんて。まだ信じられない。
(嫌いって言ったのに……)
 ヘルムートはエリスが突然わがままを言ったとき、驚きはしたが、嫌な顔は全く見せなかった。
 そのうえ、こうしてちゃんと連れて来てくれて。
(ヘルムートさま、やっぱり優しい……)
 エリスの心はずきんと痛んだ。そんな優しい人に、自分は嫌われているのだと思ったら、やっぱり泣きそうになる。
(だめ。今日は…、泣いちゃだめだ。せっかくのお出かけが台なしになっちゃう……)
 エリスは必死に痛む心を無視した。せめて今日だけは忘れていよう、とぶんぶんと首を横に振った。
 代わりに、エリスは無理やり別のことを考え始めた。
(…えっと、)
 ―――――エリスはふと、そういえば、こんな風に彼と二人で出かけるのは本当にはじめてのことだ、と思った。
 子供の頃は、もっぱらエリスの家にヘルムートが見舞いに来ることが多くて、そのまま室内で過ごしてばかりだったから。
 それに結婚してからも、相変わらず身体が病弱なことに加え、関係が上手くいっていなかったので、新婚旅行にすら出かけていなかったし。
(新婚旅行かぁ……)
 ヘルムートにそんな話をされたことはないけれど、もし普通に結婚生活を送っていたら、どこかに連れて行ってくれたのだろうか。
(……行ってみたかったな……)
 仲良く二人で異国を旅するなんて、今のエリスには夢のまた夢としか思えなかった。
「――――エリス、ぼうっとしてるけど大丈夫?もしかして馬車に酔った?」
 と、ヘルムートに声をかけられたエリスは、ハッとした。
 いつの間にか、支えてくれていた手は離されていた。 
 それを淋しく感じながら、慌てて答える。
「あっ、なんでも……」
 ないです、と続けようとしたエリスは、顔を上げた瞬間、目の前に広がる光景にぱちぱちと瞬きした。
 人生のほとんどを屋敷の中で過ごしてきた彼女にとって、それはまさに未知の世界だった。
 人々の興奮した熱気や、どこからともなく聞こえてくる楽しげな音楽、笑い声……。
「わぁ……」
 思わず感嘆の声を上げたエリスに、ヘルムートが微笑んだ。
「――――じゃあ、行こうか。店を眺めながら歩いて行けば、広場に抜けるから。今からゆっくり行けば、ちょうど舞の始まる時刻になるよ」
「はい…っ」
 エリスは自分でも驚くほど弾んだ声で返事をした。この独特の明るい雰囲気に、早くも影響されたらしかった。
 先ほどまでは、ヘルムートと二人きりの状況に緊張して、いつもの如くろくに話しもできずに固まっていたのだが、それがこうして楽しげな賑わいの中にいると、気分が高揚してきて、自然と微笑みまで浮かんだ。
 

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