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第四章 秋のお祭り

「――――エリス、せっかくだから少し見て行こうか」
「あ…、はい」
 そう言われて、エリスが視線を巡らせると、そこには染め織物や小物、装飾品がずらりと並んでいた。
 異国のものと思われる、見たことのない色彩や模様の品物に、エリスは思わず悩みも忘れて「わぁ…」と小さな歓声をあげた。
「ヘルムートさま、あの青い織物、すごく綺麗。青空を切り取ったみたい」
 それから、あっちの桃色も淡い色合いで可愛い、と彼女にしては珍しくはしゃぎながらヘルムートを振り返ると。
 彼は驚いたようにこちらを見ていた。
「…あ」
 エリスの高揚していた気分は、急速にしぼんでいく。
 物珍しさのあまり、つい子供のように振るまってしまった。
「ごめんなさい……」
 きっと呆れられた、としょげていると、ヘルムートは言った。
「……きみはホントにすぐ謝るね」
「だって…あの…」
「僕、そんなに怒ってるように見える?」
「………」
 エリスが答えに窮していると、彼はため息を吐いて言った。
「困ったな…。そんなつもりはないんだけど」
 と、繋いだままの手に少しだけ力が込められた。
「…僕はさ、さっきみたいに、きみが昔のように振るまってくれたら嬉しいんだけど」
「え…」
「だから、僕のことは気にせずに自然に楽しんでごらん」
 ヘルムートはそう言って、やさしく微笑んでくれた。
 けれど、繋いでいた手は、するりと離されてしまう。
「あ…」
 まだ、繋いでいたかったのに。
 エリスは彼の手を視線で追ったけれど、それを告げることはできなかった。
 ただ残された温もりを、ぎゅっと閉じ込めるように胸元で握りしめる。
 ヘルムートは、すでにそんなエリスに背を向けて、数多く並ぶ品物を眺めていた。
(ヘルムートさま)
 エリスは心の中で強く彼の名を呼んだ。そうすれば、振り向いてもらえるとでもいうように。
 でも、やはり彼はこちらを見てはくれなかった。
 エリスは離れてしまった手を恋しく思いながら、自分も品物を眺め始めたが、先ほど感じた興奮はもうどこにもなかった。
「……」
 ヘルムートは、『昔のように振るまえばいい』、『自然に』と言ったけれど。
 いったん意識してしまえば、どうすればいいのか分からなくなってしまった。
 ヘルムートが、今のエリスの態度にうんざりしていることは分かっているのに、彼の望むようにできないことがもどかしかった。
 結婚前のことが、無性に懐かしくて、まるで遠い昔の出来事みたいに感じられる。
 一人どんよりしながら、手前にあった硝子の小物入れを見ていたら、突然くらっと目眩がした。
 よくあることなので、エリスは目を強くつむって、その一瞬をやり過ごす。
 遠のいていた身体の不調が、また戻ってきたようだった。
 先ほどよりも頭が重くて、少し気持ちが悪い。この熱気のせいかもしれなかった。
 エリスは、ヘルムートに言おうかどうか迷ったが、結局黙っていることにした。
 まだ豊穣祭には来たばかりだし、このまま帰ったら、何も伝えられないまま終わってしまうから。
(――――言わなきゃ)
 ちゃんと、自分の気持ちを。ろくに会話も出来ないありさまだけど、それでも勇気を出して言わないと。
(弱気になっちゃダメ。がんばれエリス……!)
 合言葉は『コレット(元気の象徴)』だ。大丈夫、きっと気を強く持っていれば、「好き」と伝えることもできるし、具合が悪いのも吹き飛ぶに違いない。
 エリスはまったく何の根拠もなく、そう思った。
(………でもその前に、少しだけ休憩したいな……)
 そうしたら、きっと帰るまで持ちこたえられるから。
 そんなことを思いながら、ぼんやりと織物に目を落としていると、エリスはふいに、その結わえた髪に何かを差し込まれる感覚がした。
「……?」
 不思議に思って視線を上げてみれば、いつの間にかまたヘルムートが目の前にいて、年老いた店主から手鏡を受け取っていた。
(ヘルムートさま、鏡を買ったのかな…?)
 それにしては、使い込まれているような古い鏡だし、包装もしてもらっていない。
 エリスが見つめていると、老店主はこちらを見て言った。
「よくお似合いですよ、お嬢様」
 と、ニコニコと声をかけられたので、エリスは何のことだろうと首をかしげた。
 するとその拍子に、シャラン、と耳元で金属の奏でる軽やかな音が聞こえ、思わず手を伸ばそうとしたが、それは鏡を掲げ持つヘルムートによって止められてしまった。
「――――エリス、そのまま。見てごらん」
 エリスが瞬きしながら鏡の中を見つめると、その栗色の髪には花と小鳥を模した可憐な髪飾りが差し込まれていた。
「え…」
 それには繊細な模様の入った玉飾りが付いていて、エリスがわずかに身じろぎしただけでも軽やかに揺れ、店のひさしの隙間から差し込む陽光に、きらきらと煌めいた。
「……綺麗」
 吐息と共に呟くと、店主が満足そうに頷く。
「隣国の姫君が身につけていらしたのを模したものですが、それもまた一級品ですよ。腕の良い職人がこしらえたものですから。それに、その小鳥の羽の部分、そこに嵌めてあるのはダナン国産の一級の翡翠です」
「―――うん、中々いいね。きみの瞳とお揃いで可愛いよ」
 そう言って、ヘルムートもまた満足げに微笑んだ。
 眼差しまでも温かな彼に、エリスの胸は否応なしに高鳴る。
「これをいただくよ。あと、こっちの織物も」
 と、彼が示したのは、エリスが見つけた青色と桃色の二種類の織物だった。
「ヘルムートさま」
「――――たまには夫らしいことをさせておくれ」
 少し照れたような表情で言いながら、彼はさっさと代金を支払った。
 エリスは驚きすぎて、思わず固まってしまった。
 なんだか上手く行き過ぎて、まるで夢の中の出来事のようだ。
 嬉しくて嬉しくて、本当に泣きそうだった。
 

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