ヘルムートは無言でその女性に視線を向けた。
彼女は自信に満ちあふれた表情で、ヘルムートに身体を密着させたまま語りかける。
「偶然にもこのような所でお会いできるなんて、嬉しいですわ。今からわたくしと過ごしませんこと?―――まさか、このわたくしとも一夜限りだなんて、そのようなつれないこと、おっしゃいませんわよね?」
この女性は、以前にヘルムートが関係を持った人なのだ。エリスは茫然と立ち尽くしながら理解した。
「あのさ」
ヘルムートが視線を交わしたまま、その女性に話しかける。エリスは、もうそれ以上見ていられなかった。
「……ヘ、ヘルムートさま」
エリスは必死に声を絞り出した。それは雑踏にかき消されそうなほど、小さな声だった。
彼が女遊びをしていることは、前から知っていたけれど。
でも、こうして事実を目の前にすると、その衝撃は聞いたとき以上のものだった。
そのうえヘルムートに呼びかけた瞬間、エリスは女性に敵意むき出しで鋭く睨みつけられてしまい、身を震わせた。
温室育ちのエリスは、人から悪意を向けられることに免疫がないため、それだけで萎縮してしまうのだった。
「あ、の…、わ、私やっぱり、気分が悪くて……。先、に帰ります……」
じりじりと後ずさりながら言う声もまた、その握りしめた両手と同じように震えてしまった。
きっとまた、みっともなく泣きそうな顔になっている。
エリスはどこか冷静に、そう思った。
「エリス、待って」
ヘルムートはその女性の腕を振り払い、エリスの方へ足を踏み出した。けれど。
「ヘルムート様!なぁに?その子。……お知り合い?」
と、女性は不快そうに問いかけながら、再び彼の腕に絡みついた。
ヘルムートが顔をしかめ、何か言いかける。
「いい加減に……」
「いやだ、ヘルムートさま。まさか、そんな子が今宵のお相手だなんて―――おっしゃいませんわよねぇ?」
と、女性は言葉の最後の方で、エリスのことを上から下まで品定めするように眺め、クスッと笑った。
それは、明らかな嘲笑だった。
エリスは青ざめたまま、また後ろに下がった。するとその拍子に背中が誰かにぶつかり、真後ろから「痛てぇな!気をつけろっ」と男の怒鳴り声が飛んでくる。
「あ…っ、」
エリスはその初めて聞く怒鳴り声に、完全に足がすくんだ。怖い。涙が滲み、ぶつかったはずみでよろめいた身体を、とっさにしがみついた店の支柱で支える。
「エリス!」
ヘルムートは女性の腕を再び振り切ると、怯えるエリスに素早く歩み寄った。
あやすように髪を撫でられる。
「この女のことは放っておいていいから。行こう、エリス。―――怖かったろう」
そう言って、ヘルムートはエリスの小さな身体を支えてくれた。
「…で、でも……」
エリスは戸惑った声を出した。
「大丈夫だから。どこかで落ち着こう」
と、ヘルムートはエリスの片手を握りしめた。
もう一つの手で、彼女の細い背中を支えながら。
「さあエリス。ゆっくりでいいから、歩こう」
(でも)
歩いて、どこかのお店に入って。それで落ち着いて、このまま何事もなかったかのように振るまえるだろうか。――――否、できるわけがない。
「エリス」
ヘルムートが少し強くうながした。
けれど、エリスの足は地に根を生やしたかのように動かない。
「……抱き上げるからね」
告げて、彼が動こうとした時。それを制するように女性がわめいた。
「ヘルムートさまっ!どうしてわたくしを蔑(ないがし)ろにするの!?それも…っ、『この女』だなんて!酷いわ…!わたくしのこと覚えていらっしゃるでしょう!?それなのに、どうしてそんな子をっ」
その大声に、道行く人々が店先にいる三人を好奇の目で眺めていくが、エリスは人々の無遠慮な視線を気にするどころではなかった。
女性の怒りに気圧され、ただ青ざめたまま立ち尽くしていたのだから。
そんな中、ヘルムートは至って冷静な口調で言った。
「さあ、お前など覚えてないな。迷惑だから消えてくれないか。妻が怯える」
「………め、迷惑?覚えてない?ご冗談でしょうっ?それに、それに今、妻とおっしゃったの……っ?―――まさか!こんな子が貴方の妻なわけ……」
女性は驚いた様子でエリスを凝視していたが、すぐにおかしそうに吹き出した。
嘲笑もあらわに言う。
「いやだわ、ヘルムート様ったら!ご冗談でしょう?ヘルムート様のように素晴らしい方の奥様が、こんな貧相な娘のはずないじゃありませんか。からかうのも大概になさって下さいな」
「……っ」
その嘲りに満ちた声、言葉。
エリスの脳裡に、嫌な記憶がざわりと忍び寄る。とっさにそれを防ぐために、ヘルムートに握られていた手を振りほどくようにして、両手で耳を塞いだ。
ざわめきも、女性の嘲笑も、ヘルムートの声さえも聞こえぬ場所であれば、その記憶から逃れられるとでもいうように。
けれどそれは、エリスを冷酷に追いつめる。無駄なあがきと嗤いながら。
『あんな青白くて貧弱な女、好きこのんで抱くのはよほどの――――』
『―――否定はしない』
(わたしはヘルムートさまにふさわしくない)
頭がぐるぐるとして、吐き気がした。
「――エリス!」
ヘルムートが耳を塞いでいた手をはがし、抱きしめようとした。
その力の強さで、エリスは現実に引き戻される。彼女は反射的に、その腕と蘇る記憶から逃れようと、激しく身をよじった。
「いや…っ」
差したままの翡翠の髪飾りが、音を立てて揺れる。
(なんで浮気なんてするの?)
(どうして嫌っているくせに優しくするの?)
(わたしはヘルムートさまにとって何?)
答えの分かっている疑問や分からない疑問が、次から次に溢れ出してくるのに、そのどれ一つとしてエリスは口に出来ない。
その代わり、思ってもいなかった言葉が飛び出した。
「……らい、……きらい。ヘルムートさまなんてきらい……!」
ぽろぽろと涙を零しながら、エリスはヘルムートの顔を見た。
その瞬間、己の口から出た言葉に完全に血の気が失せる。
(傷つけた……?)
自分の言葉なんかで、この人が傷つくはずがないと思う一方で、エリスは彼のアメジストの瞳に浮かんだ悲しみを見た気がした。
(嘘、わたし、本当はそんなこと思ってない。だって、だってわたしは―――)
「エリス……」
ヘルムートが苦しげに呼ぶ。
エリスは言葉を失った。その見開かれた緑の瞳から、絶望が流れ落ちる。
『困ったときは…………』
そのとき、ふいに子供の頃に聞いた祖父の言葉が蘇った。
続けて、コレットの声が頭に響く。
『もう駄目だと思ったら、彼を呼びなさい』
祖父の声がまた告げる。
『そなたを助けてくれるぞ』
それは事実だった。
もう久しく頼ってはいないけれど、それでも彼はきっと助けてくれるだろう。今はただ、この場から逃げ去りたいという願いを。
エリスの震える唇が、無意識のうちに開かれた。
風にさらわれる程か細く小さな声だったが、彼女は確かに口にした。
自らの剣と盾となる存在の名を。
「たすけて……、レスター…」
エリスは顔を覆って俯いた。
それゆえ、ヘルムートがどんな顔をしたのかは見なかった。
「やっぱりきみは……あいつを………」
ヘルムートが何かを言いかけたのと、それは同時だった。
呆れたような調子の若い男性の声が、エリスの耳にはっきりと届く。
「あのなあ、お姫。普通は呼ばれたからって、すぐには来られないんだぜ」
「お前……」
ヘルムートが呟く声を聞きながら、エリスは涙に濡れた顔を上げた。
真っすぐな漆黒の髪に、琥珀色の瞳。
彼女の守護者は、いつも通りの飄々とした雰囲気で雑踏の中に立っていた。