(……ヘルムート、さま……?)
茫然と見つめるエリスの横で、ヘルムートはすっと立ち上がった。
その、他を圧倒するほどの冷然とした美貌に、女性が怯みながらも目を奪われているのが分かった。エリスもまた、恐ろしさを感じつつも否応なしに惹きつけられ、見とれてしまったから。
冴え冴えと輝く月光のような天使は、冷淡な口調ではっきりと言った。
「お前のような女に覚えはないと言っただろう。目障りだ、失せろ」
「な…………っ」
女性はその凍てつくような眼差しに顔色を失くした。怒りのためか、嘆きからか、その身体は震えている。
エリスの心臓は、自分が言われたかのように早鐘を打っていた。
彼がそんな風に、冷酷な様子で人に接しているところを初めて見て、驚くよりもただただ怖かった。
「ひ、ひどい……」
悔しげに唇を噛むと、女性はきっと涙目でエリスを睨みつけた。
「どうしてこんな女が……!わたくしの方がヘルムート様にふさわしいのに……!」
まるで呪詛のようにそう吐き出すと、彼女はヘルムートの激高を恐れるかのように後ずさりし、そのまま踵を返してよろめくように走り去った。
その姿はあっという間に人ごみの中へまぎれ、見えなくなる。
「……怖がらせたね、ごめん」
振り返ったヘルムートの表情は、いつもエリスに向けてくれる優しげなもので、思わずほっとした。
けれど、身体の震えはなかなか収まらない。
ヘルムートが再びエリスの顔を覗き込もうとした時、ずっと静観していたレスターが淡々と言った。
「遊んだ女のしつけくらい済ませとけよ、公爵」
「お前にも去れといったはずだ、オルスコット」
ヘルムートはもうレスターの方は見ず、エリスだけを視界に捉えていた。
「今日はもう、うちに帰ろう。豊穣祭はあと二日もあるから、また一緒に来ればいい」
「…………ど、して?」
「ん?」
膝をついているヘルムートの視線はいつもよりずっと近くて、じっと見つめられるとアメジストの澄んだ瞳に吸い込まれそうになる。
この人はこんなにも綺麗で、心が強くて、何てまばゆいのだろう。
エリスは自分のみすぼらしさを恥じ、俯きたくなったけれど、それをこらえて言葉を続けた。
「どうして、ヘルムートさま……、私に優しくしてくれるの…?」
あの親密な雰囲気の女性にさえ、冷たくしたのに。
エリスにはその理由が分からなかった。
「……僕がきみに優しくするのは当然だろう?」
名ばかりでも、妻だからという意味だろうか。
それとも、身体が弱いから……?
エリスはぼんやりとしながら思った。吐く息が熱い。
「エリス、熱が…?」
熱を確かめようとしたのか、ヘルムートの手が額へと伸ばされる。
「でも……」
と、その前にエリスは口を開く。
ちゃんと話さなくてはならない。
今日はそうすると決めていたのだから―――――。
(私のこと、嫌いでしょう?)
そう訊こうと思った。
けれど、肝心な言葉はやはり声にはならなかった。
勇気なんてとうに消えてしまっていて、そこにいるのはいつもと同じ弱虫で泣き虫なエリスだった。
潤んだ瞳は、幼い頃からの癖でレスターの助けを求める。
彼はその眼差しに込めた気持ちに気づいてくれて、面倒くさそうにため息を吐くと、「公爵」とヘルムートに呼びかけた。
「オルスコット、何度言わせれば……」
振り返りもしないヘルムートに、レスターは告げた。
「そいつは俺が預かる」
「――――何だと?」
ヘルムートはそこでやっとレスターの方を向き、鋭く言った。
「……言葉に気をつけろ。冗談で大怪我したいのか?」
「求めあれば力となり、時に剣となって闘い、時に盾となって守る。俺がお姫のじいさんと交わした契約だ。――――しばらくはあんたから離した方が良さそうなんで、俺が預かる」
「ふざけるな」
「ふざけちゃいないさ。それに、俺としてもよそ様の夫婦事情になんざ首を突っ込みたくはないが……」
仕方ないとでも言うような口調だったが、ふとその琥珀の瞳は悪戯を思いついた時のように細められた。
彼はおもむろに己の片腕を振り上げると、短く何事かを呟いた。
するとその瞬間、彼らのいる大通りを強い突風が吹き抜けていく。
「きゃ……っ」
エリスは巻き起こった砂埃から目を守るために顔を伏せた。あちらこちらで人々の短い叫び声がする。
その時、エリスは急に身体が軽くなるのを感じ、慌てて目を開いた。
「え…っ」
驚くべきことに、彼女の身体はふわりと宙に浮き上がっていたのである。
地面が遠い。ヘルムートに抱き上げられた時よりも。支えが目に見えない分、あの時よりも怖かった。
その上、エリスはまるで羽根にでもなったかのように、風の流れに乗って一瞬のうちに宙を横切る。
「やっ…」
「エリス!」
ヘルムートの叫ぶ声が聞こえ、同時に今度は誰かの腕に支えられているのを感じた。
つむっていた目を恐る恐る開けると、そこはレスターの腕の中だった。
彼は片腕だけで、子供のようにエリスを抱き上げている。中肉中背なのに、意外と腕力があるらしい。あるいはエリスが軽すぎるのか。
「れ、レスター……」
風に遊ばれていたエリスの長い髪が、ふわりと胸元に落ちると共に、風はいずこかへ吹き去っていた。
大通りにいる人々は、再び何事もなかったかのように歩き始めている。
ほっとしたのもつかの間、
「クソ魔法使い!ぶちのめすぞ!!」
と、口汚い怒声が聞こえて、エリスはびっくりしてレスターの漆黒の頭にしがみついた。
「??」
それは熱もどこかに吹き飛ぶような、すごい衝撃だった。びりびりと空気が震えるほど、怒りに満ちていて。
いったい誰が怒鳴ったのだろうとエリスが不安に思っていたら、レスターが平然と言った。
「お前の旦那、あいわらず外見と中身の差が激しいな。貴族のくせに口悪ぃし」
「え……?」
(いまの、ヘルムートさま…?)
彼は、あんな乱暴な言葉遣いはしないはずだ。それに初めて聞く、恐い声だった。あれが彼だなんて、何かの聞き間違いではないだろうか。
でも、今レスターのことをそんな風に呼ぶ人は、彼以外にいないのも確かだった。