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第五章 剣と盾

   * * *


「おい、いい加減に泣き止め」
 レスターが前方を見つめたまま言った。
 彼の胸に顔を埋めていたエリスは、こくんと小さく頷いた。しゃくりあげているせいで、返事をしようにもなかなか言葉が出ない。
 エリスは震える手で涙を拭うが、もう泣いちゃ駄目だと思う気持ちとは裏腹に、雫は新たにぽろぽろと落ちてくる。
 その気配を察したのか、レスターはため息を吐くと、自分の服の袖口でごしごしとエリスの目元を拭った。
「い、いたいレスター……」
「ったく、何だその声。掠れてるじゃねぇか」
「だ、って」
「ああ、もういい。着くまで話すな。……ホントにお前は昔から変わんねぇな」
 レスターの呆れた口調。
 それに少し落ち込みながらも、エリスは懐かしく思った。レスターこそ、昔から変わっていない。口では厳しいことを言っても、いつもこんな風にエリスに親切にしてくれていた。
「レスター…」
「黙ってろ。喉がよけい痛くなるぞ」
 口は悪いけれど気遣ってくれているのは十分に伝わって、エリスはその優しさに甘えるように、ぎゅっとレスターの上着の胸元を握った。それをどう思ったのか、彼は言う。
「――――寒いだろうが、もう少し我慢しろ。下を走るより、こっちの方が速いから」
 こっち、とは空のことだ。レスターはあのあと無言でガラスの馬を宙に浮かせ、驚きに目を見開く人々のはるか頭上を、まるでそこに大地があるように走らせて、その場を離れたのである。
 音もなく、滑るように宙を翔けるガラスの馬からは、青白い燐光が放たれていて、その通り道には少しの間だけ光の足跡が残されていた。彼らの行き先を示すように。
 二人はいま、王都の外れにあるセロンという小さな町に向かっていた。そこにはレスターの家があり、湖と木立を挟んだ向かいにはエリスの実家もある。
 久しぶりに両親の顔を見て安心したかったけれど、エリスは思いとどまった。
 ――――今は両親に向ける顔がない。こんな泣き顔を見せたら、きっと心配させてしまうから。
 それに訳を話せば、もっと悲しませてしまうだろう。あんなに喜んでくれた結婚が、うまくいっていないだなんて。両親にはこの一年何度か会ったけれど、エリスはヘルムートの浮気や、ぎくしゃくとした関係については何ひとつ告げていなかった。
 にこにこと娘の幸せな暮らしを見に訪れた両親には、とても言えなかったのだ。
 だから、いまレスターが「うちでいいだろ」と事後確認をとって、彼の家に向かってくれているのはありがたいことだった。
 けれど、ヘルムートはどう思っただろう。
 エリスの胸は、その瞬間ずきんと大きく痛んだ。
(ヘルムートさま、は……)
 風が耳元で唸る。
 頬に感じるそれは、大地を歩いている時よりも強くて痛い。レスターはエリスの身体に障らぬように速度を緩めてくれていたけれど、それでも彼女には慣れぬ速さだった。
 振り落とされないようにしっかりとレスターの胸にしがみつきながら、エリスは思い出す。
 二人が宙に浮かぶのと同時に、ヘルムートがその場に背を向けて歩き去ったことを。
 彼は一度も振り返ってはくれなかった。
 エリスは馬が駆け出すまで、その姿を視界に映し続けていたが、やがてレスターにしがみついて泣いた。
 戻ってくる必要はない、という彼の言葉が耳から離れない。何度もこだまして、その度にエリスの胸を痛めつける。
 とうとう決定的に、ヘルムートから見放されてしまったのだ。
 雑踏の中に消えていった彼の姿を捜しながら、エリスは打ちのめされた。
 確かに自分はヘルムートの手を拒んでしまったけれど、彼を嫌いになったわけではないし、この先ずっと離れたいと思ったわけでもない。
 ただ、今だけ、あまりにも目の当たりにした光景と、突きつけられた現実がつらくて逃げ出したかっただけだ。そして、これからのことをレスターに相談して、考える時間と助言とが欲しかっただけ……。
 それなのに、なぜこうなってしまったのだろう。あのまま、レスターに助けを求めず、ヘルムートに連れられて公爵家に戻った方がよかったのだろうか?
 考えても分からない。それに、過ぎたことだ。もう起きてしまったことは覆らない。
 エリスがヘルムートに見捨てられ、嫌われてしまったことは、変えようのない現実なのだ―――――。
 そんな風に考え事をしていたから、熱が上がったのかもしれない。エリスは、意識が朦朧としてきた。
 己に寄りかかる重みが増したことに気づいたのだろう、レスターが「じきに着く。耐えろ」と声をかけてくれた。
 エリスは痛む胸を押さえつけながら、強く目を閉じた。
(ヘルムートさま……怒ってた……。きっと、もう私のこと許してくれない……。嫌いなんて、私からは、言っちゃ駄目だったのに……)
 たとえヘルムートがエリスを嫌っていても、エリスの方がそれに気づかないフリを続けていれば、この先もあの虚構の結婚生活は続けられたはずなのだから。
 それなのに、エリスは全てを壊してしまう言葉を告げてしまった。
 けれど、元々あの愛のない冷めた生活はふとしたことで壊れてしまうような、脆いものでもあった。
 ヘルムートは、エリスを疎ましく思う気持ちをとてもうまく隠して接してくれていたけれど、彼女の方はその本音を知らぬフリが上手にできずにいたのだから。
 遅かれ早かれ、この結婚生活は、終わりの時を迎える運命だったのかもしれない。
「レスター……」
 エリスの呼吸は、次第に乱れてきていた。じっとりと嫌な汗が全身を覆っていて、吐き気も収まらない。
「お姫。無理に話そうとするな」
 泣いて、泣いて、飽きるほど泣いた彼女の目に、また性懲りもなく水分が滲む。優しくされると、それだけで。
 自分は誰かに労わってもらえるほど、価値のある人間ではないのだと思えた。
 だって、こんな自分がヘルムートの手を拒むなんて。
 彼が許してくれなくても、それはきっと当然のことなのだ。
 

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