エリスは体調が悪いことも手伝って、感情の制御が利かなかった。泣きながら、枯れ果てた声で言葉を紡ぐ。
「ヘルムート、さま、に……また絵を見てもらえたら、仲直り、できるかな……?」
「……絵?お前の描いた絵、結婚してから見てないのか、あの公爵」
と、訝しげにレスターが訊いた。
エリスの眦から伝った涙を、風がさらうように乾かしていった。
「ヘルムートさま……、お忙しいから……」
それは事実だけど、真実でもない。
確かに彼は結婚してからも忙しく働き、家にはほとんどいなかった。
でも、仕事の後に他の女性のもとへ行く時間はあったのだから、エリスの絵を見る時間くらい、つくろうと思えばつくれたはずなのだ。
結婚前のように、エリスが何も乞わずとも、たびたび絵を見に来てくれていた時のように。
今の彼は、何を描いているのかさえ訊いてくれない。日常会話がろくに成り立たない今のエリス相手に、わざわざ訊く気になれないことは分かっているけれど。
でも、いくら描いても誰も見てくれない絵を描くのは、さみしくて仕方なかった。特に彼は、一番喜んで見てくれていた人だったから。
本当は、それほど見てもらいたければ、エリスの方からそう頼むなり、彼が家にいる間に見せに行くなりすればよかったのかもしれない。
でも、それは今のエリスにとって容易なことではなかった。意気地がない上、関係が悪化してからは彼とろくに顔を合わせることもなくなっていたのだから。
稀に長時間家にいる時だって、エリスのことになど無関心なようで、寝込んでいても昔のように部屋に来て声をかけてくれることもなくて―――――だから、確信してしまったのだ。
彼がこんな自分にうんざりしていることを。
それなのに、「絵を見て」なんてつまらないお願いごとなどできるはずもない。
エリスがそのことをかいつまんで話すと、レスターは心の底から呆れ返ったように、きっぱりと言った。
「アホ。見てもらいたきゃ無理やりにでも見てもらえ。俺に対する遠慮のなさはどこにいった」
遠慮がない、だろうか。
でも考えてみれば、子供の頃から頼りっぱなしで、何度も助けてもらったから、自分はレスターにしてみれば「遠慮のない子」になるのか。
「ごめ」
「謝ったら落とすぞ」
「……は、はい」
声が本気にしか聞こえない。
こんなに高いところから落とされたら死んでしまう、とエリスはいっそう強くレスターにしがみついた。
「お前は公爵に遠慮しすぎなんだよ。俺に対するようにわがまま言えばいいだけだろうが。だいたいお前、あの公爵は昔っから………。……いや、そこは俺が言うことでもねぇな……」
レスターは何かを言いかけて、途中で止めてしまった。その代わりに、「まあとにかく、その卑屈な思考回路をどうにかしろ。いい加減にしねぇと水分なくなるぞ」と、コレットと同じようなことを言った。
「う…ん…ごめんなさ……」
「落とすって聞こえなかったか」
「な…、何でもないです……」
エリスは首を横に振った。気持ち悪くなる。
「吐くなよお前。こんな場所で吐いたら、えらいことになるぜ」
「うん…」
エリスはちょっとだけ笑った。こんな時でも笑えるのだと自分で驚いたが、胸の痛みが消えたわけではなく、涙が涸れたわけでもなかった。
レスターが、独り言のように呟いた。
「しかし、お前って……、ガキの頃から本当に馬鹿なままだな」
(わかってるの…、レスター……わたしヘルムートさまに迷惑ばっかりかけて……どうしようもないの……)
そう思ったが最後、エリスの意識は深い闇の中へと落ちていった。
* * *
絵を描くのを止めろ、とレスターが初めてエリスに言ったのは、彼女が十二の時だった。出会ってから数年間、そんなことは一言も言わなかったのに、なぜか急に彼はそう言ったのだ。
『今までお前の絵、ちゃんと見たことなかったから気づかなかったけど、あれはもう駄目だ』
『駄目って……、そんなに気に入らなかった?』
エリスは二・三日前に、それまで書き溜めていたレスターと彼の飼い猫の絵を贈ったのだが、それが何か気に障ったのだろうかと思った。
でも、レスターは『そうじゃなくて』と首を振った。
『絵は……自分の顔見て喜ぶ趣味はねぇが、上手い、と思う』
めったにないレスターからの褒め言葉に、パッと表情を明るくしたエリスを見て、彼は少しためらう素振りを見せた後、こう言った。
『ただ、お前の絵は普通じゃない。……俺がもっと早くに気づくべきだった』
『……普通じゃないって、おかしいってこと?』
そんなに独創的な絵ではないはずなのだが。
レスターはエリスの疑問には答えず、別のことを訊いてきた。
『お前、自分がどうしてそう些細なことでしょっちゅう寝込むのか、考えたことはないのか?いくら生まれつき身体が弱いとは言え、大病を患っているわけでもないのに、そんなに倒れたり熱出したり、死にかけたり、そうそうなるもんじゃないだろ』
『それは……、私が無理して外出したり遊んだりするからだって、お医者さまが』
『無理って程度でもない気はするが、まあ確かにそれもあるだろう。だけど、一番の原因はお前の絵にある』
『私の絵が、なに?』
エリスは訳がわからず、首を傾げるしかなかった。
そんな彼女を一瞥すると、レスターは視線を逸らして言った。
『お前の絵は、――――お前の命を糧にして描かれている。だから、そこまで虚弱になったんだ』
『え………?』
『お前はおそらく、俺と同じ種類の人間だ』