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第六章 レスターの家

(ヘルムートさま……わたしのこと、やっぱりいらないんだ…………)
 公爵家からの連絡がないことをレスターから聞いて、エリスはそう思った。彼が結婚してくれたのは父親に頼まれたからであって、それ以外に理由などないことは分かっていたけれど。
 『戻ってくる必要はない』と言われて、はっきりと思い知った。彼がずっと自分を煩わしく思っていたことを。―――――エリスは底無しに落ち込んで、思い出すたびに傷が深くなる。
 きっともう、彼は自分を許してはくれなくて、このままずっと嫌われたままで……傍に近づくことも許されなくなる。彼は優しい人だけれど、もともと人嫌いなところがあって、一度見放されたらそれまでのような気がした。
 大好きな人にいらないとはっきり告げられて、それでも平気な顔をして近寄れるほど、今のエリスには度胸も勇気もない。ただ沸き起こるのは、彼にもっと酷い拒絶をされたらという恐れだけ。
 そのうえ先に拒絶したのはエリスの方だ。許してくれるとも思えない。
 彼の手を拒んだ自分に向けられた、悲しそうに陰った眼。一瞬だけだったから、あれは見間違いかもしれない。自分みたいな人間の言動で、彼が傷つくだろうか……。
 でも、もし本当に彼を傷つけてしまったのだとしたら―――――ずきずきと胸が痛む。とりかえしのつかない道を選んで、傷ついたのが自分だけならいいけれど、もし彼を傷つけていたら………。
 エリスはせわしなく瞬きして涙を堪えると、かつてレスターのおじいさまが使っていたベッドに横になったまま、窓から日暮の木立を見つめた。
 一日が長く感じられるのは、寝込んでいるときの常だ。逆に元気に起きているときには短く感じる。
 結局、豊穣祭はエリスが高熱を出して寝込んでいるうちに終わってしまった。……まるで夢のようにあっけない。豊穣祭の目玉である巫女の舞も見られなかった。
 どうしようもない状況なのに、そんなことをぼんやり思う自分がおかしかった。エリスは自嘲する。あの時、彼はまた一緒に来ようと言ってくれたけど、きっともう二度と同じことは言ってくれない。自分は彼の手を拒んで、逃げてしまったから。
 つらくてどうしようもなくて選んだ逃げ道は、ヘルムートに見限られてしまう最悪の道で。エリスは自分の愚かさを思うと目の前が暗くなる。いくら心が負けてしまったとはいえ、逃げ出すべきでなかったのだろうか。
 ………きっと、そうだ。だから冷たくされてしまったのだ。自分はなんて馬鹿なのだろう。本当は、拒絶する立場にいるのは自分ではなく、彼の方だったのに。
(ヘルムートさま…、わたしをお嫁さんにしたこと、後悔してるんだろうな……)
 父親同士が友人だからといって、エリスの両親に頼まれたからといって、貰い受けなければよかったと。きっと結婚したばかりの頃から思っていたのだろうけれど。
 ぜんぶ自分が悪いんだ、とエリスは思った。こんな風に心身共に情けない人間に、誰が魅力を感じるだろう。
(…………だから、浮気されちゃうんだ……)
 その事実もまた、思い出すたびに沈んでしまう。………豊穣祭で遭遇してしまったヘルムートの浮気相手の女性はとても綺麗で、それに同性から見ても見事な身体つきだった。痩せてパッとしない容姿の自分とは大違いの――――。気性もまるで違った。彼は自分の手前、厭うように女性をあしらっていたけれど、本当はああいう華やかでハッキリと感情をあらわせる人が好みなのではないか。
 そういう人のほうが、自分などよりよほど彼に似合う気がする。
 初めから、友人や知人ならともかく、妻なんていう大事な椅子に自分などが座るべきではなかったのだ。たとえ彼が勧めてくれた椅子だとしても、彼のことを思うなら断らなければならなかった。
 エリスは唇を噛んで、泣くまいと堪える。レスターがいつか言った通り、エリスは一人でいると悪いことばかり思って、立ち直れなくなりそうになる。
 涙は四日間、嫌というほど泣いたからか盛大には流れないけれど、かわりに頬を静かに伝う。
 袖でごしごしと涙を拭った。放っておいたらいつまでも泣いてしまう。レスターが細々と世話をしてくれながら、何度も「めそめそするな、湿気(しけ)る!」と怒ってくれたおかげで、どうにか感傷を抑えられる。
 

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