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第六章 レスターの家

 エリスはここに来た日の夜、一度ベッドの上で吐いてしまったのである。それもレスターの服に。彼は吐きそうになったエリスの口元に、とっさに傍に置いていた自分の上着を掴み、洗面器がわりにしたのだ。病弱エリスは何度も人前(両親や侍女、それにお医者さまの前)で吐いた経験があるので、ヘンな話、慣れているといえば慣れていたのだが、今回は違う。エリスは本当に恥ずかしくて、情けなくて、レスターに対しての申し訳なさでいっぱいだった。
 なにしろ彼の前で吐くのは初めてだったから、むろん後処理をしてもらうのも初めてで、免疫のない状況にとても居たたまれなかった。いくらレスターが平然としていても。
 エリスは真っ赤になって俯いた。
「誰だって気分が悪けりゃ吐く。ましてやお前は人より身体が弱いってのに、いちいちクヨクヨ気にしてどうする。いくら反省しても足りないだろうが」
 おっしゃる通りです、とエリスは落ち込んだが、それがレスターなりの「気にするな」という気遣いであることには気づいていた。
 もう思い出さないようにしよう、と顔を上げると、レスターがベッドサイドの脚の低いテーブルにトレイを置いたところだった。
 彼はエリスがまだ手にしていた、水の滴る布を見て、何も訊かずに「貸してみろ」と手を伸ばしてきた。
 エリスから布を受け取ったレスターは、きゅっと軽く絞る。軽く、なのに、なぜかエリスがそうするよりもたくさんの水が、桶の中へと落ちていった。
「すごいねレスター。魔法みたい…」
「……」
 思わず尊敬を込めて言っただけなのに、なぜか憐れなものでも見るような目をされる。
 はっ、とエリスは気づいた。
「も、もしかして、わたしが非力なだけ……?」
「俺はお前が今さらそこに驚いてることに驚いたね」
 ちょっとがっかりしたエリスに皮肉げに突っ込み、レスターは布の皺をきちんと伸ばしながら訊いてきた。
「頭に乗せるのか?」
「ううん、身体拭こうと思って……」
「身体?」
 レスターは顔をしかめた。
「お前な…、夏場じゃあるまいし、水なんかで拭いたら風邪引くぞ。いい加減、自分がひ弱な自覚を持て」
 と、口ではきつく注意しながらも、彼は桶の水面に手をかざした。
 すると、たったそれだけの動作で水に泡がたち、白い煙が立ちのぼる。魔法でお湯に変えてくれたのだ。
「わぁ……、ありがとう」
 レスターはそのお湯に布をひたし、さっきと同じように絞ってくれながら、にこりともせずに言った。
「なんなら、ついでに背中も拭いてやろうか」
「えっ!?あ、と、あの」 
「アホ。冗談に決まってるだろ。そんくらい自分でどうにかしな」
 レスターはやはり微塵も笑わずにそう言って、さっさと部屋から出て行こうとする。
 その背中にエリスは慌てて声をかけた。お風呂のことを頼むのを忘れていたのだ。
「レスター、あとでお風呂………」
「三十分ほど待ってろ。俺もメシ食うから、そのあと準備してやるよ」
 と、彼はみなまで聞かずに告げて、さっさと部屋から出て行った。
 エリスは慌てたせいで少し赤みのさした頬のまま、はふ、と息を吐く。
 冗談なら冗談らしく笑って言ってほしい。真顔で言われるとつい本気にしてしまうから。
 まあ、そもそもレスターが自分みたいな子に興味があるわけもないので、本気に捉えるほうが悪いのかもしれないけれど。
 それにしても、相変わらずレスターは基本的に無表情で、めったに笑ってくれない。いつも天使のような微笑みを浮かべているヘルムートとは対照的に………。
 だから、むかし彼が初めてヘルムートと出会った頃、ふっと笑ったのを見て、エリスはとても感動した。それはヘルムートに負けず劣らずの意地悪げな笑みだったのだが、エリスは何とも思っていなかった。ただ滅多にない貴重な笑顔に嬉しくなってしまっただけだ。
 そんなことがあったから、エリスはきっと二人は仲良くなれると考えたのだ。
 でもそれは叶わなくて……。
(ヘルムートさま……)
 エリスはお湯で温まった布に顔を押し付けた。腫れた瞼に、じんわりと熱が伝わり、気持ち良い。
 もう、彼のことを思い出すたびに考え込んで、クヨクヨするのは止めにしなければ。
 エリスは何度も自分に言い聞かせる。
 起きてしまったことは、変えられない。
 そのかわり、これからのことを考えなければならないのだから。



   * * *



「熱かったら水入れろ。蛇口捻ったら出るから」
「うん…?」
 蛇口、って何だろう。
 エリスは聞きなれない言葉に首を傾げながら、着替えの服を抱えて脱衣場に入った。中に入れば分かるだろう、と特に訊き返さず、服を脱いでいく。
 レスターの家には何度か遊びに来たことがあるけど、さすがにお泊りをしたことはなかったから、お風呂場に入るのは初めてだった。台所の横の扉が脱衣場に繋がっていることも、いま初めて知った。
 人ひとり分の幅しかない脱衣場で脱ぎ終えた服は、ごはん前に着替えたばかりだったけど、レスターがまた新しい服を貸してくれたから、ありがたく洗濯籠に入れた。
(あ、……そっか、お洗濯もレスターが……)
 実家ともヘルムートの家とも違って、この家に使用人はいない。昔はレスターのおじいさまが健在だったから、二人で家事を分担していたみたいだけど、今はすべて一人でこなしているのだ。料理も、洗濯も、掃除も。きっと他にも色々。エリスが使用人たちにして貰っていることは、全て自分だけで。
 そんな当たり前の事実を今さらながらに実感して、彼の大変さを思う。家のこと以外にも、魔法使いとしての仕事もあるだろうに、そのうえ病人の面倒まで見させてしまった。エリスは激しく落ち込んだ。自分のことばかり考えて、寝込んで泣くばかりで、そんなのは厄介なお荷物以外の何物でもないではないか。まあ、本当に今さらという感はあるけれど………。
 

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