prev / 天使の落下 / next

第六章 レスターの家

 エリスは籠に入れたばかりの服を手に取り、自分の着たものくらいどうにか自分で洗えないかと考えた。方法さえ教えてもらえれば、自力でなんとかできると思うのだけれど。
 というか、己の無力さと役立たずぶりには呆れ返ってしまう。昔から、事あるごとにレスターに呆れられていた理由がようやく理解できた。これもまた、今さらすぎるけれど。
(あとでお洗濯の仕方教えてもらおう)
 そう決めてから、ふと思い出したのは、豊穣祭の日に着ていた外出用のドレスのことだ。あれは一体どこにいったのだろう。寝ていた部屋には見当たらなかった。レスターがどうにかして―――――。
 エリスの思考はそこで一時停止した。
(だ、だめだめだめ。考えちゃだめ!)
 洗ってくれたにしろ丸めて置き捨ててあるにしろ、その前の段階があるわけだから。
 ドレスを脱がされている自分を……小さなボタンを外すレスターを想像しかけ、エリスは真っ赤になって頭を振った。
「おい、まだ入ってないのか?気分悪いなら、明日の朝にしろよ」
 と、扉越しにレスターが声をかけてきた。
 脱衣場にいる気配がいつまでもするから、不審に思ったらしい。エリスはびくりと身体を震わせた。
「ううん、だ、だいじょうぶ!」
 裸のまま何を考え込んでいたのだ、と自分に突っ込み、エリスはそそくさとお風呂場の戸を開けた。
 中は思っていたより広かった。
 いや、思っていたよりも、どころか。
「え、え……??」
 思わず意味もなく背後を振り返り、左右を見て、また前を向く。
 異様に広い。
 お世辞にも小さくないとは言えない家の中に、これほど広い空間が収まるだろうか?……否、収まらない。というか、家の面積を遥かに越えている気がする。
 実家のお風呂も、ヘルムートの家のお風呂も、これほど広くはなかった。というより湯気があっても壁の位置くらいは把握できていた。それがここは、どこに壁があるのか分からないし、見上げても天井がない。
 そう、ないのだ。真っ白い空間が広がっていて、その中にぽつんと長方形の大きな木の浴槽がある。石ではない浴槽は初めて見た。
(変わったお風呂場……)
 タイル貼りの冷たい床だけが、普通だった。
「れ、れすた〜?」
『―――なんだ』
 つい独り言で、助けを求めるように呼んだら、どこからともなく返事があって。
「きゃあ…!」
 呼んでおいて何だが、エリスは身体中を真っ赤に染めてしゃがみ込んだ。
『……覗いてるわけじゃねぇよ。音だけ拾うように魔法かけてんだ。お前が中でぶっ倒れても分かるように。嫌なら遮断する』
「あ…、え、そうなんだ……ありがとう……。あの、じゃあ、このままでお願いします……」
 倒れない確率より、倒れる確率のほうがはるかに大きいエリスは大人しく同意した。それから、しゃがみ込んだまま訊いてみる。
「お風呂、広いね……?」
『広いほうが気持ちいいからな』
 のぼせるまで入るなよ、と言って、レスターはそのまま会話を切ってしまう。
「…………」
 近づいて見ると、確かに泳げそうなほど浴槽は大きい。
 でも、空間まで広くする理由はないのではなかろうか。一体どこまで続いているのかも分からない。そう思いながら、辺りを見回していると。
「……?」
 はるか彼方の湯気の中を動く影が見えて、エリスは思わず硬直した。
 誰がいる、と思って青ざめたが、よくよく見るとそれは何かの動物らしかった。黒い身体に、白いお腹。二本足で、ひょこひょこ視界を横切っていく。それもいくつも。
 人ではないことと、怖がるほどの大きさではないことにひとまず安堵しながら、エリスはもう一度呼びかけた。
「レスタ―……?」
『どうした』
「あの、お風呂に何か、動物がいるよ……?黒っぽくて、二本足で、見たことがないの……ちょっとかわいい……」
『ああ…、気にするな。ただのペンギンだ』
「そう、ただのぺ……」
 ―――――――ペンギン?
「それ、なに?」
『動物。害はない。ただの通りすがりだ』
「とおりすがり……」
 なぜ民家の風呂場が、ペンギンとやらの通り道になっているのだろう。
 意味不明すぎて、エリスは考えることを放棄した。一言で納得することにする。
(さ、さすがレスター…!)
 それこそ意味不明な納得の仕方をして、エリスはタイルの上に無造作に置かれている石鹸を手に取った。ペンギンのことは頭の片隅に追いやりながら。
 エリスは石鹸と一緒に置かれている、ブラシと布の両方を見比べた。どちらを使えばいいのだろう。迷った末、痛そうなブラシではなく、やわらかい布を使って身体を洗った。いつも侍女の誰かに洗ってもらっていたから、自分で洗うのは本当に久しぶりだ。
 木の桶で浴槽からお湯をすくう。いかにも熱そうな湯気で、視界はさらに真っ白になった。指を浸けてみたら、このまま使うにはちょっと熱い。
 そういう時、普段なら誰かしらが水瓶を運んできて温度を調節してくれるのだが、ここにはそんな人はいない。まさかレスターに中まで運んできてもらうわけにはいかないし……と思ったところで、エリスはペンギンショックで忘れていたことを思い出した。
(そうだ、レスター、熱かったら蛇口を捻れ、って言ってた)
 でも蛇口、ってどんなものだろう。
 エリスはきょろきょろと辺りを見回し、浴槽を確かめる。
 すると、湯気で隠れていた浴槽の淵に、何やら取っ手のようなものが付いている。これかな?と触り、言われていた通りに捻ってみると、細長く伸びた取っ手の先から勢いよく水が出てきた。
「わ…っ」
 一体どうなっているのかは分からないが、すごく便利だ。もしかして、お湯もこんな風に出したのだろうか。あるいは、洗面器の水みたいに、手をかざしてお湯にしたのかもしれない。
 

prev / 天使の落下 / next


 
inserted by FC2 system