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第六章 レスターの家

 よくよく蛇口を観察してみると、捻った部分に小さな紋様がついていた。レスターが魔法を使うときに、時々描くものだ。
(この蛇口、に魔法をかけてるのかな。すごいなぁー……)
 これがあれば、わざわざ苦労してお湯を運び入れなくてもいいし、すぐに入れる。レスターの生活の知恵(?)に感動しながらお湯と水を混ぜて、エリスは程よいところで蛇口を閉めた。
 身体の泡を洗い流してから、ちゃぽん、と浴槽の中に沈み込む。
 温かいお湯にくるまれて、うっとりした。久しぶりのお風呂は本当に気持ちがいい。気分まですっきりしてくる。
 エリスはその時ふと、石鹸の横にさっきまではなかったはずの小瓶を見つけた。瓶は透明で、中には乳白色の液体が入っている。ラベルがついていないので、正体不明だ。
「なんだろう……?レスタ―?」
『今度はなんだ』
「あのね、何か液体の入った瓶が出てきたよ……?」
『瓶?―――ああ、そりゃ入浴剤だ。売れ残りの。風呂ん中に入れてみな。数滴でいい』
「うん」
 入浴剤ならばエリスにもなじみがあった。でも、彼女の知るそれはもっと綺麗な色つきの瓶に入り、絵の描かれたラベルが貼ってある。
(レスター、魔法薬だけじゃなくって、こんなものも作って売ってるんだ……器用でいいなぁ……)
 エリスは小瓶の蓋を開けると、控えめに液体を垂らした。たった数滴だったのに、瞬く間にお湯は淡い緑色になり、ハーブの香りが立ちのぼる。
「いい匂い……」
 落ち着く香りに、温かな湯船。なんだか眠くなってきた。あんなにずっと眠っていたというのに。エリスは浴槽の淵に両腕を置いて、その上に顔を乗せて目を閉じた。ちょっとだけ、少し目を閉じているだけ…………。眠るわけじゃないから、大丈夫。
 その後エリスは、危うくお湯に沈むところを眉間に皺を寄せて中に入ってきたレスターに、「だから言っただろうがこの馬鹿!」とパコンと頭をはたかれて救出された。引き上げるとすぐさま大きな布でくるまれたので、それほど見られてはいないけれど、エリスは申し訳ないやら恥ずかしいやらで翌朝までレスターの顔を見られなかった。
 ただ、意識が朦朧としていて悲鳴を上げなかったのは不幸中の幸いだったかもしれない。助けてくれたのに騒いでいたら、いっそうレスターは怒っただろうから。


   * * * 


 朝が来ると、そこが一年過ごした公爵家ではないことを実感する。目を開けて真っ先に見えるのが、綺麗な絵の描かれた天井ではなくて、木目の天井だから。
 エリスは重いため息を吐いて、起き上がった。今日は昨日よりも気分がいい。身体もずいぶん楽だ。
 いつまでも寝込んでいるばかりではいけないから、エリスはよしっ、と気合を入れる。
 ため息はもうおしまい。
 両手を拳にして「がんばるぞ〜」と弱々しい声で叫ぶ。具体的に何をどう頑張るのかはまだ決まっていないけれど。
 でも、頑張らなくちゃ。
 エリスは自分の手でカーテンを開けた。これも、いつもは侍女がしてくれていたので、差し込む朝日を正面から浴びるのは、何だか新鮮だった。
 いつもなら朝も着替えるが、昨日の夜そうしたばかりだったし、体調も戻ってきて汗をかいたりもしていないから、止めておくことにした。
 それに、着替えるばかりしたら、洗濯物が増えてしまう。エリスは今日、レスターに洗濯の仕方を学ぼうと思っているのだが、初めてだし、量は少ない方がいいと考えた。
 ちなみに昨日、お風呂上りにレスターが貸してくれたのは、今までと同じ膝上まであるシャツに、彼の子供時代のズボンだった。「これなら丈もちょうどいいだろ」と。わざわざ箪笥の奥から引っ張り出してくれたらしい。
 胸が小さく痩せた体つきに、男物の服。夕べ、お風呂上りに鏡の前に立ち、思いつきで髪を一つに結わえてみたら、貧相な少年に見えなくもなくて。「ドレスより似合うんじゃねえの」とレスターには意地悪く笑われた。
 でも、エリスは落ち込んだりはしなかった。本当に悪意のある言葉ではないことはよく分かっていたし、むしろ自分でも鏡を見てそう思ったから、小さく笑った。ようやく、笑えた。
 レスターと話していると、エリスの心はだんだん昔に戻っていく。無邪気で、悩み事がなくて、ただ幸せだった日々に。
 もっと、もっとあの頃のように心が軽くなったら、その時は。
 ヘルムートを前にしても、ちゃんと話をできる気がする。
 きっと……、子供の頃のように。
 

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