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第一章 公爵家のゆううつな日々

「ヘルムートさま……」
「……どうしたの」
 少し困ったように微笑んで、ヘルムートは訊いてきた。 
(困ってる……?)
 エリスはその瞬間、見送ろうなどと考えたことを後悔した。
「ごめんなさ……」
「待って。エリス」
 すぐに立ち去ろうとしたエリスは、ヘルムートの大きな手に手首を掴まれる。びくっ、と肩が震えたが彼は離してくれなかった。
 エリスの顔は徐々に真っ赤に染まっていく。
「どうして謝るの」
「だって……」
 その時、ヘルムートの上着を持って現れた従僕がパッと身を翻すのが見えた。玄関ホールの真ん中で手を繋いだまま突っ立っている主夫妻に気を利かせてくれたのだろうけれど、エリスはとても気恥ずかしくなった。
 身体中の熱が頬に集まってくるようだ。それに、掴んでいる手がとても熱くて……。
(ヘルムートさまの手……熱い?)
「エリス、だって、何?」
 黙っていると、もう一度訊かれた。
 こんなに間近で話をしたのは本当に久しぶりで、エリスはそれだけでもう容量オーバーだ。じんわり涙が滲む。
「だって、あの、迷惑だとおもって」
 ヘルムートの顔を見ることができずに、エリスは繋いだままの手を見下ろしながら何とか言葉を紡いだ。
(好き)
 胸の奥からそんな想いが突然湧き上がってきた。
 どうしようもなく貴方が好きなのだと、この繋がった手のひらから伝わればいいのに。
 けれど、エリスの思いも虚しくヘルムートはその手を離した。
「何が迷惑?」
 ため息が、彼の口から零れ出た。
 エリスの身体はたったそれだけで強張ってしまう。
「もしかしてきみがここにいるのが迷惑とでも?」
 エリスが何も答えられずにいると、ヘルムートは呆れたように続けた。
「あのね、ここはきみの家でもあるんだから。どこにいようときみの自由だよ」
「……はい……」
「……エリス」
 ふと、声の調子が変わった。
「どうしてきみは、僕といると――――」
「え……?」
 見上げたけれど、ヘルムートはすでにエリスに背を向けていた。
 従僕の名を呼んで上着を持って来させると、彼はそのまま振り返ることなく出かけて行った。




 その日、結局お昼を過ぎてから気分が悪くなったエリスは、早々にベッドに横たわった。
(絵……完成してないのに。お散歩も、したかったな……)
 いま描いている庭の絵は、描き始めてすでに二ヶ月半になる。水彩絵の具で色を重ねている途中なのだが、完成までにはあと少しかかりそうだった。
 結婚してから一年間というもの、エリスが描いたのは庭の移り変わる風景だけだった。枚数で言うと三枚。本当はもっと色々なものを描きたいのだが、こうしてしょっちゅう寝込んでいるとなかなか筆が進まない。
 エリスはよく時間と健康的な身体が欲しいと思う。そうすれば何でも描けるし、どこへでも行ける。部屋から見える庭や花瓶に活けられた花、果物や彫像なども嫌いではないけれど、時には河川や森、街に出向いてスケッチしたかった。
 そして、それ以上に描きたいのは人の絵だった。
 たとえば使用人たちが一生懸命に働いている姿。病弱な自分にはとうていできないテキパキとした動きを見ているとなんだか眩しくて、それを真っ白な画用紙の上にそのまま写し取りたいと思うのだ。
 ――――そういえば、人の絵を最後に描いたのはいつだろう。
 確か、十二・三歳の時だった。 
(あの絵が最後……)
 今は手元にない自らの絵を思って、エリスは目を閉じた。
 その頃から、生き物の絵を描くことは禁じられている。
『最近、人や動物の絵を描かないね。風景画なんかもいいけどさ、僕はきみの絵は人物画が一番いいと思うよ』
 まだ今みたいに気まずくなる前、結婚するずっと前に、ヘルムートがそう言ってくれたことがある。エリスはあの時、曖昧(あいまい)に頷いた。
 描かないのではなく、描けないのだと言えなかったのは、彼が自分の絵に興味を失くすのではないかと思ったからだ。
 でも、それは杞憂だった。
 ヘルムートはエリスが人物画以外のどんな絵を描いても、ちゃんと見に来てくれた。
『僕さ、きみの絵を見てるとなぜだか幸せな気分になるんだよね……』
 いつだったか何気なくそう言ってくれた言葉が、今もエリスの胸を温かくする。
 閉じた瞼から涙が伝った。
 きっとまた、彼は見てくれる。
 結婚してからこの部屋で描いてきた絵も、いつかきっと。


   * * *


 いつのまにか、エリスは眠りに就いていた。
 そして、こんな夢を見た。
 朝も早くに目覚めたエリスは、侍女たちが困惑するほど元気いっぱいで、たくさんの絵を描いた。飽きるほど描いた後は、おなかがぺこぺこになったので朝食をとろうと食堂に向かった。
 すると先客がいて、エリスの分の朝食まで綺麗に平らげられていた。かなしくてかなしくて泣き始めたエリスに、先客のヘルムートは天使のように微笑んで、こう告げたのだった。
『食べたければ、綺麗におなり。きみのようにみにくい娘に食べさせるものなど、ここには何もないよ』と。
 エリスはぼろぼろと泣いた。
 その時ふと気がつけば、手の中に自分が描いた絵があって、それを見せたらヘルムートは優しくしてくれるかもしれないと思った。
 でも、ヘルムートはそんなものには見向きもせずに立ち去ってしまった。
 ――――次に目を開いたとき、エリスは暗闇の中で本当に涙を流していた。
(私がきれいだったら、ヘルムートさまは私を好きになってくれた……?)
 そんな馬鹿なことを思った。
 

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