手放したかったわけではない。
できることなら、ずっと自分の傍にいてほしかった。
だけど、あの子は結婚してから全く笑わなくなり、顔を合わせるたびにさみしそうな、悲しそうな顔しかしなくなった。
それが何故なのか、ヘルムートはうすうす気づいていた。
何しろ彼女とも、あのいけ好かない――――今ではもう憎いと断言できる―――男とも、子供時分からの付き合いである。
気づかないフリは、彼女があの男の名を呼んだ瞬間に限界を迎え、そして現実を認めざるを得なくなった。
そうして彼女との脆い関係は、あっさりと崩壊した。
最後に幕を引いたのは自分自身だが、あれから毎晩夢に見ては、翌朝苦々しい思いで目覚める。
震える睫毛の下で、涙に濡れて悲しげに揺れる緑の瞳や、あの男に助けを求めたか細く頼りなげな声、そして――――豊壌祭で久しぶりに見た、可憐な笑顔………。
あの男のもとに渡った彼女は、自分といる時とは違い、きっと昔のようにいつも微笑みを絶やさないのだろう。
代わりに、もう彼女が自分に笑いかけてくれる可能性はなくなった。
だが、彼女さえ幸せならば。
これで、よかったのだ。
――――たとえ、腹の中が苛立ちと嫉妬で煮えたぎっていようとも。
「離縁することになった」
「………なんだって?」
「だから、離縁することにした」
「誰が」
「僕」
無表情かつ平淡な声音で告げたヘルムートに、衝撃の報告を受けた彼の友人は、執務机の前でピタリと固まった。
「ヘルムート……」
やがて返ってきた声は、この上もなく低かった。
青い瞳が睨みつけてくる。
「お前、このクソ忙しい時期にとつぜん奥方とデートしてくるとか嬉しそうに惚気(のろけ)て休暇をもぎ取った挙げ句、続けて三日も無断欠勤しておきながら、言うに事欠いてソレか」
「他にどう言えと?」
負けず劣らず不機嫌な気配を撒き散らし、美貌の天使は逆ギレした。
金髪に青い瞳の、こちらも端正な顔立ちの友人は、一見して平静そのもののヘルムートが、凄まじい苛立ちを身の内に押さえ込んでいることを見抜き、普段なら言い合いになるところを、大人しく引き下がってやる。
代わりに、落ち着いた声で静かに問いかけた。
「飽きたのか」
「何に」
「貧相な奥方。初めからお前には役不足な…」
ドゴッ!と、言い終わらない内に、頑丈なはずの執務机が激しい衝撃を受けて揺れた。
「…………お前、俺は曲がりなりにも王子なんだが」
「アア、ソウダッタッケ」
棒読みで返す元学友・ヘルムートの顔は相変わらず涼しかったが、眼は『もう一言でも彼女を悪く言おうものならブチのめす』と語っている。
ヤレヤレ、とこの国の第一王子にしてヘルムートの数少ない友人リカルドは首を振った。
「相変わらず溺愛しているくせに、なにが離縁だ。バカバカしい。俺は他人の痴話喧嘩になど興味はないぞ、ヘルムート」
「僕は本気だ。―――手放す決意をするのは容易じゃなかったが、……そうしなければあの子が幸せになれないなら、仕方ない」
「………事情は知らんが、本気なのか」
「だからそう言ってるだろ」
ヘルムートは疲れたようにため息を吐くと、部屋の中央に置かれているソファに座った。長い足を組んで、背もたれに全身を預ける。
「……勝手に休んだのは?三日間何をしていた」
リカルドのその問いに、ヘルムートは先程から手に下げていた袋を開けてみせた。
現れたのは、一瓶のワイン。
「きみに土産」
「……。まさかお前が失恋で飲んだくれる日が来ようとはな」
「僕も思わなかったよ。だけど気を紛らわせるには恰好の品だ」
その声には、僅かに苦々しさが混じっていた。
ヘルムートは数日前のあの日、エリスと別れてからそのまま公爵家に戻った。一人で帰宅した主を驚きと困惑とで迎えた使用人たちには、エリスは実家に戻ったと伝えた。
男と逃げたとは、彼女の名誉のために言わなかった。彼らが離縁することは、そのうち社交界にも知れるだろうが、別れる原因は彼女にではなく自分にあると思わせるつもりだった。
幸いというのも変だが、ヘルムートにはやたらと不名誉な噂が立っている。結婚後も何人もの女性を食い物にしているだとか何とか。
きっと世間は、ヘルムートの度重なる浮気が離縁の原因だと思い、エリスには同情的な視線を向けるはずだ。
ヘルムートがそんなことを考えていると、いつの間にかテーブルを挟んだ向かいのソファに座っていたリカルドが、さっそくワインの栓を開けていた。グラスに赤い液体が注がれていく。
「それで、酒の次は仕事にでも没頭する気か?」
「気が紛れれば何でもいい」
「なら、ちょうどいい。頼みたいことがあって、お前を呼び出そうと思っていたんだ」
「何?」
ヘルムートは王子に注がせたワインを飲む。
リカルドもグラスを傾けてから、ごく普通の調子で告げた。
「俺の花嫁がトンズラした。捜して捕獲してきてくれ」
「…………」
まるでペットの珍獣が逃げ出したかのような言い方だったが、くだんの花嫁を知るヘルムートとしては、反論はなかった。ただ捕獲の困難さを想像して、眉間に皺を寄せる。
「まぁ、ある意味、これ以上ない気の紛らし方だね」
「離縁なんぞする人間に任せるのは不吉でしかないが、俺はいま身動きとれんし、他にアレを取っ捕まえることができるのはお前くらいだからな……。任せる」
「あんまりな言いようをしてくれる。ま、事実だからいいけど……」
かくして、ヘルムートは友人の花嫁を捜し出す役目を負ったわけだが――――それでもやはり、彼女のことを思わない時はなかった。
彼女の柔らかで優しい笑顔を眺め、甘く可愛らしい声を毎日聞けたら、自分はきっと幸せだった。
彼女があの頃のように大好きな絵を描いて、幸せそうにしてくれれば、それでよかった。
自分の傍で。
だけど、その願いは叶わなかった――――。
彼女は今頃、涙を止めて笑っているだろうか………。
* * *