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第七章 星が宿る

 一年暮らした公爵家は、セロンほどではないにしろ、喧騒からは遠くて静かだった。
 でも、実家やレスターの家にいる時のように落ち着くことはなかった。
 なんだか、いつもよその家に間借りしているみたいに、エリスは身の置き所がなかった。それは決して公爵家の人々のせいではない。彼らは親切で、とても優しかった。
 嫁いだ当初にヘルムートが浮気していることを教えてくれた女中には、なぜだか意地悪な言い方ばかりされて苦手だったけれど、その彼女はすぐに辞めてしまったので正直言ってホッとした。
 嫌だったのは、それくらい。
 だから概ね、エリスはとても恵まれた環境にいたといえる。
 それでも、エリスは彼らに心から馴染むことはできなかった。優しく気遣われたり、毎日会話を交わしても、お屋敷の侍女たちとは打ち解けることはできなくて、時どき実家が恋しくなることがあった。
 こんなことなら、嫁ぐときに実家の侍女の誰かに来てもらえばよかったと。
 ヘルムートはいくらでも連れてきていいと言ってくれていたけど、エリスはいつまでも子供みたいに甘えていてはいけないと思い、その申し出を断ったのだ。一人でもしっかり奥さんとして頑張れる、と思って。
 でも、できなかった。
 せめて一人だけでも付いてきてもらっていれば、こんな風に悩んでヘルムートとぎくしゃくしたりすることもなかったのかもしれない。
 実は、いちばん慕っていた侍女のメアリは、「わたくしはどこまでもご一緒いたします」と言って、着いてきてくれようとしていたのだけど。
 エリスの式の直後にお腹に赤ちゃんがいることが分かり、おまけに体調が思わしくないということで叶わなかったのだ。今は無事に出産して、赤ちゃんの面倒を見ているのだという。彼女はたびたび「残念です。無念です。赤ちゃんが歩き出したらすぐにでもお傍に戻ります!」と決意の手紙をくれていたが、今回のことを知ればどう思うだろうか。
 婚家に馴染めず、それどころか夫とも上手く行かなかったなんて………。
 別に人見知りする方ではないと思うのに、ヘルムートの家の人なのだと思って無意味な気を張っていたのが良くなかったのかもしれない。遠く離れて落ち着いた今なら、そう思える。
 こんな風に、少しずつ、駄目だったところが分かってくる。
 どうしてもっと上手くできなかったのだろう。なにもかも、彼とのことだって。自分に勇気さえあれば、結婚式で耳にした言葉の真意だって、訊くことができたのに。
 そうしたら、今頃こんなことにはなっていなかったかもしれない。
 もしかしたら、もっとマシな関係でいられたかも、しれない………。


   * * *


 洗濯の仕方を教えてもらおうと思ったら、すでにレスターがエリスの着ていた服までしっかり洗って、裏庭に干してしまっていた。ついでに下着も。昨日のことといい、エリスは色んな意味で泣きたくなった。
「あう……」
「お前そんなこと覚えても、このさき活用する機会なんてねぇだろ。いつまでうちに居座る気だ」
「い、居座る気はないけど……」
 現在進行形でご厄介になっているエリスは、ごめんなさいと謝って、しゅんとしたままパンをちぎって口に入れた。
 もそもそして、固い。バターやジャムもなく、飲み込めなくて牛乳で押し流した。
「質のいいパンじゃなくて悪かったな、お姫サマ」
 エリスが一生懸命パンを飲み込もうとする様を眺めていたレスターは、とても意地悪な言い方をして、せせら笑った。
 台所の隣の小さな居間には、四人がけの素朴な木のテーブルがあって、二人は向かい合って座り、朝ごはんの最中である。
 エリスは頬を膨らませると、今度は意地でも牛乳を使わずにパンを飲み込んだ。またレスターが笑う。どうせ馬鹿とか思われている。
 カボチャのスープはこし方が粗かったけど、温かくて甘くておいしかった。昨日の夕ご飯もそうだが、レスターは料理が上手だ。どれもやさしい味がする。
「レスター、おいしい」
「居候の世辞はけっこう」
 と、顔も上げずにばっさり切り捨てられた。
 本心から言ったのに。
 エリスは「お世辞じゃないよ」と強く言った。
「きっとコックさんにもなれると思う」
 大げさではなく本気で思ったのに、レスターは小馬鹿にした眼でこちらを見た。久しぶりにそんな眼を向けられて、う、とエリスは小さくなる。
「お前、結婚しても相変わらず能天気で世間知らずのわたあめ様だな」
「わたあめ様…………?」
「鏡見たことあるか?」
「うん………?…………………。」
 エリスが単語の意味を考え込む間に、レスターは綺麗に食べ終えて台所の奥に皿を持っていった。
 ちぎったパン片手に、エリスは首を傾げたまま固まって。
 台所の奥から皿を洗って片付け終えたレスターが戻ってくる頃、ようやくハッとしたように叫んだ。といっても声は小さかったが。
「ひ、ひどいレスター……!髪のこと言ってるの?」
 エリスの髪は長くて、緩いくせがあって、どんなに梳かしても真っすぐにならないのだ。ふわふわ広がってしまう。豊かな栗色の髪は自分の身体の中で一番好きだが、でもちょっとだけ癖のある髪質は気にしていたのに。わたあめだなんて。
 ちなみにわたあめは、昔レスターのおじいさまが魔法でお砂糖を溶かして風でぐるぐるして作ってくれた雲みたいなお菓子である。不思議な作り方で、ふわふわで甘くておいしくて、エリスは大好きだった。……いや、それは今は問題ではない。
 レスターが感心したように言う。
「そこに辿り着くまでに異様に時間がかかったな。さすがお姫」
「ほ、褒めてないよ……?!」
 突っ込んだら、レスターは片眉を器用に上げて、ついでに口の端も上げる。
「フーン。ちょっとはお利口になったのか。お前に嫌味が分かる日が来るとは驚きだ」
「……!れすたーのばかぁ……っ」
 ひどい、意地悪、とめそめそ涙ぐみながらパンを齧る。やっぱり風味がない。固い。
 でも、叫んだら、なんだか元気になってきた。重苦しく胸につかえていたものが、僅かに軽くなったように感じる。
 エリスがもそもそしながら食べ終えた頃、レスターは上着片手に出掛けようとしていた。
 

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