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第七章 星が宿る

「……?お出かけするの?」
「誰かさんがいて食料が足りなくなったからな」
「……すみません……」
「留守番中にちょっと具合が良いからって、調子に乗ってちょろちょろ動き回るなよ。また寝込むハメになるぞ」
「調子に乗ってないもん……」
「昼までには戻る。飲み水は台所の一番小さい甕。小腹が空いたら缶の中のチーズでも齧ってろ。熱が出たら戸棚の右から三番目の引き出しに入ってる薬を飲め」
 レスターはエリスの言葉をさらりと無視して説明し、玄関の戸を開けた。
「うん。―――あ、レスター」
「何だ」
「いってらっしゃい」
 そう言って手を振れば、顔だけ振り向いたレスターは、一瞬言葉に詰まったようにエリスを見て、結局何も言わずに出て行った。


   * * *


 誰かと一緒にあんな風に楽しく食事するのは、久しぶりだった。
 公爵家では、ほとんど朝も昼も夜も一人ぼっちで食べていた。エリスは体調が良くなくて自室で食べていたし、ヘルムートも不在が多かったから……。
 たまに一緒に食べても緊張ばかりして、楽しいどころか会話もろくにできなかったし、席だって長いテーブルの端と端。遠かった。座る距離も、心も。
 エリスはレスターにならって、自分の食べ終えた皿を台所に運んだ。台所はそれほど広くなく、壁際の腰の高さほどの台にタイル張りの流しがあった。水を張った桶がその中に置いてあり、台の上には布巾が敷かれていて、そこに綺麗に洗われた皿とコップが伏せてあった。
 エリスはどうやって洗えばいいんだろう、と頭を悩ませる。お風呂場のように蛇口はついていない。たぶん、桶の中の水で洗えばいいのだろうけど。どう見ても使用済みの水だから、綺麗な水に換えなければならない。
 右手の壁際に大きな水瓶が二つある。これを使ってもいいのだろうか。乗せてあった柄杓を手にとって蓋を開けてみたら、ごく普通の綺麗そうな水が入っていた。飲み水用は小さな甕だから、これは何用だろう。
(お皿を洗うのに使ってもいいのかな……?)
 もう一つの甕の蓋も開けてみた。
「ふ……、わ。お酒だ……」
 きつい匂い。それだけで酔いそうなほどだ。エリスは一滴も飲めないので、すぐに蓋を閉めた。周囲に匂いが残っている。レスターがお酒好きとは知らなかった。どうしてこんなものを美味しく飲めるのだろう。
(ヘルムートさま、も……普通にお食事の時に飲んでたっけ……)
 彼はいつも、何杯飲んでも平気そうな顔をしていて、顔も全然赤くなっていなかったし、態度も平生と変わることはなかった。エリスなど、甘い果実酒ですらベロベロに酔ってしまうのに。
 そういえば、結婚したばかりの頃、一度だけエリスも給仕係から貰おうとしたら、ヘルムートに「だめ」と言われたことがあった。最高級のシローニャ産の林檎のお酒。前にエリスの父親が美味しいと話していたことがあったから、一口だけ飲んでみたかったのだ。林檎味だし、それくらいなら酔わないだろうと思って。
 でも、普段飲まないエリスなんかに注ぐのは、勿体ないと思われたのだろう。ヘルムートは代わりに林檎ジュースを飲ませてくれた。それはそれで美味しかったけど、彼と同じものを口にしてみたかったので、あの時エリスは二重の意味でしょぼくれた。
 なんとも苦い思い出だ。…………自分の結婚生活には苦い思い出しかないのだけれど。
「こっちの使お……」
 エリスは気を取り直し、最初に開けた水瓶から柄杓で水を掬って、それで食器を洗った。慣れない手つきで危うく一枚ダメにするところだったが、なんとかやり遂げる。
 それが済むと、エリスは良いことを思いついた。
「そうだ、お掃除しよう……っ」
 レスターが出かけている間に、家の中をぴかぴかにしていたら、きっと驚く。珍しく喜んでくれるかもしれない。お世話になっているお礼にもなるし、とても良い考えだ。それに、動いていたら、辛いことを考え込まなくて済むから。

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