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第七章 星が宿る

 エリスは長い袖をめくり、動きやすいようにする。使用人たちがしているのを見たことがあるから、きっと初めてでもちゃんとできるはずだ。確か、ホウキで床を掃いて、ハタハタするので棚の上の埃を払い、あとはバケツに入れた水とタワシで床を磨くのだ。確か。
「えっと、ほうき……」
 レスターが昔、ホウキに魔法をかけて自動的に掃除させていたけれど、あの時ホウキはどこから飛んできただろうか。宙を滑るように居間の奥の………。
 エリスは廊下の隅っこに、物置扉を発見した。「あったぁ」これで床を掃くことができる。モップやバケツ、雑巾やブラシもそこにしまわれていた。
 ふらふらしながらホウキとバケツとブラシを手に居間に戻る。その時、「うわぁ…」という、高い子供の声が聞こえた気がして、エリスは動きを止めた。
「だれかいるの……………?」
 恐る恐る問いただすも、返答はない。風の音を聞き間違えただけだろう。怖がりな自分を恥じながら、エリスは水瓶の中から柄杓でバケツに水を移し入れ、その中にブラシを浸した。そうそう、使用人たちは確かこうやって、床を磨いていたのだ。
 エリスはびちょびちょと水の滴るブラシを床に置くと、膝をついて一生懸命磨き始めた。暖炉前のラグまで行く。ブラシから流れた水がラグに吸収されていった。
「あっ、」
 どうしよう。何か拭くもの。
 おろおろと周りを見回すと、何を思ったかエリスはとっさに自分の着ている大きなシャツの裾をラグに押し付けて水分を吸収させた。「…………」しまった。借り物のシャツなのに。
 エリスはその体勢のまましばらく固まっていたが、やがてゆっくりとシャツから手を離した。床の汚れ入りの水分を吸ったシャツは、濡れて薄っすら黒ずんでいる。レスターに怒られる。ぜったいぜったい怒られる。
 エリスはがーん、と涙目でシャツを見下ろした。
 ラグも濡れているし、床を見渡したら水を撒いたようになっていて。
 なんでこんなことになったのだろう。メイドたちと同じようにしただけなのに。
「ぞうきん……」
 そうだ、雑巾があったのだ。それでラグに残った水分を取って、エリスは床を拭いた。すぐに水分でびしょ濡れになった雑巾を、使用人たちがしていたようにバケツの上で絞るけれど、昨日同様うまく絞れない。非力な腕が震えるほど力を込めても、ちょろりとしか水が出ないのだ。困った。
 困った挙句、エリスはホウキで掃いてしまったらどうだろう、と水浸しの床をホウキで掃き始める。当然、水は流れていくだけだ。
 その時、さっきと同じ高い子供の声がまた聞こえてきた。
「あーあ……」
 と、どこからともなく。
「…………だ、だれ?」
 エリスは動きを止めて、周囲に問いかける。
 でも家の中から返ってきたのは静寂のみ。外からは鳥のさえずりと葉擦れの音しか聞こえない。
 よく知っている家だけど、そういえばこんな風に一人でいるのは初めてだった。いや、そもそも使用人のたくさんいる家でしか暮らしたことがなかったから、自分以外の人の気配がない場所にいること自体、初めてなのだ。
 エリスの鼓動は急激に高まる。陽の差す居間と台所は明るいけれど、細い廊下は薄暗く、行き止まりのその奥は真っ暗だ。エリスはだんだん怖くなってきて、ホウキを床に置くと急いで寝ていた部屋に戻った。そこが一番手前のドアでよかった。ベッドに潜り、ぎゅうっと目を瞑る。
 おばけだったら、どうしよう。退治できるだろうか。自信がない。
 むかし読んだ童話では、おばけはみんな悪者で、神官さまに退治されていたけれど。一般人にもできるとは思えない。魔法使いのレスターなら、何とかなるかもしれないけれど、今はいなくて。
 他に頼れる人は。
 傍にいてほしい人、は。
(ヘルムートさまぁ……)
 怖いよう。
 ぐすぐすと泣きじゃくりながら震えていると、―――――――急に、軽い、レスターではあり得ない小さな足音が聞こえてきて。
(やぁぁぁ)
 エリスは声なき声を上げて枕を抱きしめた。
 ところが、足音はエリスのいる部屋までは来なかった。その手前の物置扉の前で止まったらしく、扉の軋む音と共に、すぐに遠ざかっていく。
「あれ……?」
 ひょっこりシーツの中から顔を出したエリスは、涙に濡れた顔で部屋のドアを見つめる。『誰か』は、エリスには興味がないみたいに居間のほうで何かをしているようだ。カタコト物音がする。
(あっ……も、もしかして、泥棒……??)
 王都の中心部では珍しくない泥棒事件。エリスも新聞で読んだことはあるけれど、こんな穏やかな田舎では聞いたこともなかったのに。
「どうしよう」
 家の中にはレスターの大事なものがたくさんあるのに、持っていかれたら彼が困る。それに、おじいさまの形見の魔法道具も居間に置いてあって。
「……………」
 エリスは、部屋の片隅にあった額縁を手に取った。埃避けの布が被せられていたそこには、絵画や置物、大量の本が積み重ねられていたのだ。たぶん、部屋の持ち主だったおじいさまの物だろう。見覚えのあるものがいくつかある。
 手にした額縁は両手で持つのが精いっぱいの重さだったけれど、いざとなったら、これで泥棒に対抗するのだ。おじいさまには悪いけれど、額縁なら盾にも剣にもなる。………たぶん。
 果たして、部屋を出たエリスが覗き込んだ居間にいたのは、―――――――己の身の丈よりも長い柄のモップで床を拭く、ピンクのうさぎのぬいぐるみだった。

 

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